感覚と概念の違い 感覚は一対一の関係

 感覚は一対一なので、組織の中の人に対するときにどのようになるかを説明したいと思います。会社では部長と部下がいるとしますね。あるいは部活では先輩と後輩と言う関係があるとするでしょ。すると普通の人間関係と接し方が違うんです。部長だから、先輩だから、有名だから、偉い人だから、接し方が変わるでしょう。その様な習慣もありますね。それが私達の普通の人間関係なんですね。

 と言うのは、どういう意味かと言うと、概念で生きるとその人についている。肩書とか知名度とか、そのような評価関数によって人間の価値は変わってしまうので、その価値ある人に対しては、よく使え従っていくんです。ところが価値のない人に対しては無視する傾向があります。これが概念の人々の人間作る人間関係なんです。比較して、評価して人間の価値を決めるでしょう。人々の価値を決めます。これが概念の世界なんです。

 ところが感覚の人と言うのは違うんです。人間一人ひとり違うので、一対一で接することしかできないんです。これが感覚から来る人間関係なんです。私は概念の社会で教育されながら、人間の上下関係を優先した。そういう環境の中で過剰適合させながら生きなければならなかったんです。有名な人になりたいなという願望はありました。しかし、私には無理だとある時から分かったんです。感覚は一人ひとりの付き合い方が変わります。その肩書きを気にしながら上下関係を気にしながら気を使い、過剰適応をしてきました。だから人の堕落癖を感じたとしても、その堕落性に合わせながら適応させていかないといけないんです。なんで人の堕落性に合わせないといけないんだろうかと何度も思ったことがあります。人の堕落性を受け入れるんです。そうしながら一対1の人間のあった関係を作ってきたのだと思います。

 だから当然のごとく宿命的にそのような生き方をしないといけないのは必然的だったと思われます。私がこのようにして一人の人として見れるようになったのはきっかけがありました。それが何かと言うとお孫様との関係だったんです。この方を追い出さないで全面的に受け入れて、サポートするには一人の人として見ることができなければ無理なんです。そのような訓練を受けながら、歩んだ7年間歩んだ経験があるので、どんな人に対しても私は一人の人間として見ることが容易になりました。世界会長であろうが、責任者であろうが、どんな人であろうが、肩書を取り去って一人の人として見ることができます。謙虚な方はそれがその立場とか位置とか肩書とかそのようなものにしがみつきません。いつでも組織の中の底辺に移動することができます。なぜなら、組織の中でも人間関係と言うものは一対一で接することができる人だからです。

 概念で生きるとどうしても肩書に囚われ、その位置に囚われて、その位置を利用して権力を振るうんです。だからその集まりの1番底辺に行く事は無理なんです。それが試練になってしまうのはどうしてかというと概念で生きていた証拠なんですね。位置を利用して人を利用していたということなのです。

 ただ感覚の人間だけがそれを超えて底辺に行こうとも問題ないんですね。むしろ指導者とか教育者とか肩書持つことが苦悩となってしまいます。人に教えるとか人にを指導するとか、そのようなものが感覚の世界にはないからです。感覚の人はだから自分の権力を行使できないんです。自分が部活動の時にその権力を行使することができなかった理由がここにありました。私は大学で卓球部のキャップテンをしていました。その位置を利用して行動する事はできなかったんです。ただその位置が持っている責任は果たさないといけないので、それは行っていました。

 私は人間の感覚が概念になって抑圧されている体だと感じるんです。そうなると、自分の位置を利用して人々を利用するんです。自分の位置を利用して人々を用いるんです。そこに感覚があれば良いんですが、概念によって感覚が抑圧されているので仕方がないんです。

 だんだんとわかってきました。人間の感覚と人間が作り出した概念との感覚関係によって、今の社会が作られているというのはよく見えます。そして感覚の人は抑圧されながら生きなければならないのです。概念の人々はカテゴリー化してそのカテゴリーの中に感覚の人を入れて病人として扱うのです。変人として扱うのですね。これは圧倒的に概念化されている社会なので今はそのようになっていて、感覚の人は苦しむのです。一人でいると概念の人はその人を可哀想な人と見ます。だから寂しくないよと言って抱きしめて一緒にいよう、楽しもうと言うのです。それが概念の人にとっては気持ちが和らぐのです。みんなでいれば安心してみんなで楽しく喜んで生きれるよと言います。だから一人でいる人を見て概念の人は可哀想な人と見ます。

 概念の人は感覚の人を理解する事はできません。日常の生活では絶対に決め付ける事はしないのです。絶対に正しいとはしません。そして善悪の基準もありません。概念では言葉の意味だけの範囲でしょう。でも感覚はその意味だけではなく意味よりの広い範囲で感じ取るからなのです。例えば愛という言葉を聞くと概念の人はそれだけで嬉しいでしょう。しかし、感覚の人は愛と聞いても愛とは何か、感覚で感じる愛は何かと追求します。

 概念の人は森に付いて感単に森ってどんな所ですかと森に詳しい人に聞きます。あるいは図書館にいって森を調べ、森にどんな生き物がいるのかを調べることで森についてとっても詳しくなったと勘違いするんです。その人が森にいって森を感じたら森がどんなに分からないか理解することになります。だから感覚の人は森の中に行って自分の感覚で森を感じることなんですね。森を見ると時間、空間、温度などが多様でそして存在しているものもいつも変化していて、今まで決め付けていたことが決め付けられなくなり、不安になります。決め付けると分からなくなるからなのです。

 でも感覚は今、この瞬間をそのまま受け入れるので柔軟な姿勢で自然と対することが出来るのですね。この感覚が概念によって抑圧されているのです。分かるでしょうか?

 愛の根源は感覚ではないかと見えてきましたね。私は人間の良心の根源は人間の感覚ではないかと感じ初めてます。

 

 

 

 

 

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