「誰も考えない考え」を持ってはいけない。

 「誰も考えない考え」というのは基本的には確認しないと分かりません。文献ですでに書かれているかもしれませんし、SNSですでに発信されているかもしれませんね。だから、この「誰も考えない考え」というのはLLM(Large language models)の世界ではどうか分かりませんが、自分自身がいろいろな環境の中で知る限りに置いて「誰も考えない考え」という事を基本的にあらわしていますのでご理解ください。だからすでに誰かがその考えを考えている可能性があります。LLM(Large language models)の世界に現されていなくても、現してはいないのですが考えている人もいらっしゃるでしょう。それを初めに前置きしておきます。

 み言葉は絶対的なので変えてはいけないといわれています。何語で書かれた真理であれば良いのでしょうか?韓国語で書かれたみ言葉は絶対的なものなのでしょうか?それを日本語とか英語に翻訳してもその翻訳されたみ言葉は絶対的なものなのでしょうか?昔、み言葉は絶対的なものなので変えてはいけないといわれたときがありましたね。変えてはいけないといわれてました。聖書も同じ事を言いいます。聖書の何語で書かれた内容が絶対的なんでしょうか?ヘブライ語でしょうか?翻訳したらその効力はなくならないですか?翻訳という行為は変わらないのですか?韓国語から日本語に翻訳する時はそのまま書かれている真意が翻訳されてますか?私はこのような疑問を抱いているのです。

 大体、み言葉を語られる時にその方が語られる言語にする時にすでに限界があるのですね。ご自分の感じている事、内面にある物を表現するということが一体どういうことかという事を知らない人はみ言葉が絶対的なものだといいますね。言葉の背後の言葉になってない感覚の世界にその真理が私はあると考えています。だから言葉にした辞典でそれは真理ではありません。その言葉を聞く人によって理解が変わってしまうからです。概念で理解するので限界があり、もともとの感覚が正確に伝わる事はないでしょう。

 イエス様が色々と語られた事を考えます。イエス様の心の中の感覚の世界というのは誰一人として理解することができませんね。このイエス様の感覚の世界というのはイエス様の生い立ちが土台となっています。ザカリアとマリアの間の子でしょう。こんなことを書いたらまたキリスト教の方々はビックリするでしょう。中にはすでに理解している方々もいらっしゃいます。ザカリアの正妻はエリザベツですね。マリヤが3ヶ月かんエリザベツのところに泊まったでしょう。この時が聖霊により身ごもる時期であったのでしょう。科学的に可能なのは男性と女性が愛の行為をしない限り人間は生まれないのですね。信仰の世界なのでそれが通用するのです。それがさらに神秘的な効果を表しますね。

 私が言いたいのはその様な中でイエス様が生活してこられた環境から色々と感覚を通じて学ばれたと思います。人間は概念の人と感覚の人がいます。その二つに分けられるのです。殆どの人が概念の人なんです。だからそんな人が集まって歴史が作られて今の現代が成り立っているのです。だから概念で作られた思考が展開された社会が今の社会なんです。「AR(Augmented Reality : 拡張現実) とは、シミュレーションした環境で現実の環境を拡張するテクノロジーです。対してVR(Virtual Reality:仮想現実)とは、環境全体をシュミレーションし、ユーザーの世界を仮想的な世界に置き換えるテクノロジーを指します。具体的にAR(拡張現実)は、多くの場合、スマートフォンのカメラを使用して実際に見えている景色にデジタルエレメントを追加し、周りの世界を拡張します。VR(仮想現実)は、シミュレーションした環境で現実の環境を置き換えて、完全に没入できる体験を提供します。」とあるウエブサイトで説明しているものがあります。全ては人間の考えが実現した世界なんです。概念で作られた世界なのです。

 イエス様の感覚を誰一人として知る事はありません。人間の一人一人の感覚は絶対に知ることが出来ないからなのです。別々の存在を人間の感覚から生み出されているのです。だから私自身はいつも別々の存在であると日常の生活で感じるのです。それを壊して抑圧するものが何かというと言葉の概念なんですね。それを人々は平気で使っています。イエス様を理解しましょうと言いますが、はっきりいって概念では分かりません。感覚の世界でも分かりません。もしイエス様が生きていらっしゃって共にいても分かりません。だからもういらっしゃらない人、体のない感覚の存在していない人をどうして感じるのですか?

 「誰も考えない考え」考えの一部です。「誰も考えない考え」を持つ人に対してどのように思われますか?異端者でしょうね。いつも向かい風の強いなかで前に向かって進まないといけないですね。誰一人として理解する人もいません。そして自分が正しいと思わないのです。概念で考えて概念の考えを持つ人は必ず自分の考えは正しいので従うべきだと言います。今までそんな人々はいました。それは概念からきていて、正しい間違いの評価基準がそこに存在している事自体が概念の世界なんですね。感覚の世界にはそれがないので、自分が考えている事は正しいか間違っているか分からないのです。分からないで、人々からは変な目で見られ、変な考えをしていて、従わない人、変った人という目で見られないといけないのでしょう。

 それを十分に承知の上で私は一歩一歩進みます。自分の感覚なんで自分だけでよいのです。他の人には必要ないんです。それでよいのですね。

 

 

 

 

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