殆どのいろいろな問題が何処から来ているかというと、自分は変わらないところからきてますね。自分が変われば全てが終了という記事を書いてみたいと思います。人々はほぼ全員が人が変る事を願っていますね。どうして人が変る事を願うのかわかりません。私は人が変る事を願った事はありますが、それを願ってもどうしようもないという事を知っているから特に言葉にしたり、行動にしたりする事はありませんでした。だから強く人が変る事を願う事はありません。

 それよりかは自分が変わるほうが何かの喜びを感じていたようです。だから自分が変われるような努力をいつもしていたようです。人が自分が変わらないで人が変わる事を願うその理由について考えてみるとやはり感覚と概念の話になりますね。概念の特徴は人間関係に現れます。言葉がその大部分を占めてます。そのほか形に何か意味合いをつけるとかあるいは手話とか点字でその意味付けをしていますね。手話の形と意味、点字の点の形と意味付けで伝わるようになっているのです。だから形、言葉という人間が作ったものでそれに意味付けをすることで何が起きるかというと、形にしたものは共有できるでしょう。そしてその形に対して意味付けすると形が同じなので意味合いを共有できてしまうのです。

 意味が同じでも形が違う場合があります。それが言語の違いでしょう。意味と形が合わないといけないのが原則なんです。これが言語なんです。だから言語を勉強しない限り通じる事はないでしょう。どうして言語を勉強するかというとその言葉の意味を勉強することで、用い方を勉強することでお互いに概念で理解し合えるのです。あくまでも概念で司会しあいます。

 概念の世界ではこの形と形に対する意味があります。この意味は何かというと感覚の海からその意味の器を用いて水を汲んだようなものなのです。その水の入った器と形で人間は言語を用いてます。言語は明確にしますね。特に英語は明確なので人格も明確になります。なぜかというと自分の中で器しにした言葉を共有して他の人との理解が始まるのです。これが概念なんです。

 感覚は何かというとこの器がありません。概念がありません。その様な状態なので人の話を聞く時に器に感覚の水を入れなければなりません。だから時間がかかります。文字を理解するのに時間がかかります。文章を理解するのに時間がどうしてもかかってしまいます。概念はこのように人間関係に用いるでしょう。

 概念は評価基準があります。人間関係で用いるでしょう。沢山の人間関係の中である平均値があってそこで評価基準が定まってくるのです。評価基準が定まるとその評価基準を自分に用いないで人に用いて善悪を定め、正しい間違いを定め、良い行い悪い行いを定めて人を評価します。そしてさらに人に変る事を願うのです。だから悪い人は法律で定められた様に何かの罰をうけて変わらないといけないのです。だから基本的に変わる事を人間は願います。人が変る事を願うのですね。

 しかし、人が変る事を願っても社会は変りません。国も変りません。世界も変わらないのです。歴史も変わらないでしょう。ここまで来て対して変わっていませんね。日常の生活の中で人を変えるのが如何に難しいか、そして人を変えられてもそれが一体自分に何の関わりがあるのか、自分の糧になるのかと考えた時に結局は自分が変わらなかったということに気が付いた時には、大変なショックを覚えるでしょう。

 自分が変わることで周りの環境が変わり、社会が変り、国が変わって世界が変わると思いませんか?だったらどうしたら変われるのかというのを教えないといけないのではありませんか?変わる方法を誰が提示しましたか?人間の意識の問題も解けてませんね。どうしたら成長するのかも教えてません。教えないというよりかは分からないのです。なぜかというと変わった問い言う人物がいないからです。成長しているという人物がいないから仕方がないでしょう。

 ところが自分が変わるのは至難の業なんです。覚悟が必要です。孤独でも耐えられる覚悟が必要です。無視されても良いという覚悟が必要です。誰にも理解されない道を一人であゆんでも大丈夫だという覚悟が必要なんです。そして堕落性がない世界に入りますから「私の世界」が作られる中責任を逃れることも出来ません。それぐらいは耐えられる覚悟が必要なんです。

 少し難しいかも知れないですね。私は毎日実践しています。