内的自己分析 良心という表現

 良心という表現は変えたほうが良いかもしれませんね。良いの反対は悪いですね。良いという概念の反対の悪いも含まれるのです。実は感覚の世界にはそれがありません。良心を使うとか必ず悪心みたいなものがあります。ですから良心論は善悪基準で説明します。良心という表現は結局はここから来ているのです。善悪の分立摂理で何をするかというと分立して一つにならなければ意味がないのです。そこで堕落性を脱いで一つになっていのです。そうして象徴的な条件を盾ながら引き上げられてきたと思われます。そして良心という言葉は当然のごとく善悪基準の良心論になります。人間が何らかの減少を通じて心の現われがあり、それを評価したものを良心というのでしょう。だから人間自身の内面から現れているものなのですが、良心の概念として人間が現しているということが分かります。

 ところがこれでは限界が来ているのです。外から内側に入る時代、善悪闘争に終止符を打って象徴的条件の終止符を打って実体に入っていくべき時代になっています。人間が完成しないで堕落したために失ったものを取り返す、失った時点では再び堕落しなかった位置と状態に戻るというのは意識というものは自分の脳が作った意識であるということを認めることなのです。そうすることで正当化に終止符を打って、「私達の責任」として逃げ道を作らないで「私の責任」とし、自分自身の感じる意識は自分自身なのだという事を素直に受け入れるときが来ています。

 では、良心という言葉が使えないでしょう。だから感覚というものが何かということを前から説明してきました。「私の責任」と出来る人は愛の実体ではありませんか。イライラしたその原因を人に求めなくて自分自身が幼いのでイライラしている事を認めるのです。人を裁いてしまったら、その原因がその人にあるのではなく自分自身の脳の評価基準からきているものである事を認めるのです。自分自身が愛の人格者としては未熟者であると認めるのです。大体自分が勝手に考えて、深く考えすぎて、人の責任にしたりしている事を多いですね。それらの原因が自分にある事を認めるのです。

 実は現実にこれが出来てません。イライラしたりネガティブな思いを持ったら手放しましょうでしょう。忘れましょうですね。まあそれも一つの手段ですが、なかなか解決できませんね。時間がかかります。イライラしたり、ネガティブになった自分の感情の原因が自分でないと言う事を認めるので内的人格的な愛の学習ができません。認めて初めて会いの学習ができるのです。これが堕落前の本然の位置と状態なんですね。「私の責任」と認めることで内的な位置と状態が定まります。

 実はこれが一人一人の感覚からきているというが分かりました。感覚の特徴は色々ありますが、感覚は基本的に「私の世界」を示します。そして私の責任を認めるのです。感覚は自分の体の皮膚の内側のものです。人の感覚を感じる事はありません。他の生き物の感覚を感じる事はありません。同じような感覚を感じることがあるのは共感能力からくるんです。だからこれを認めると本然の位置と状態が確立します。

 それから感覚は一つ一つの物質が違います。同じではありません。人を見るときも一人一人が同じ人ではないのですね。「アジア人が2人、アメリカ人が2人、黒人が2人で合計何人でしょう。合計で6人ですね。」「リンゴが4つ、みかんが3つあります。果物はいくつあるのでしょう。」という問いかけを平気でするのです。同じ人間、同じ果物で一まとめにしてしまうのが普通で、何の違和感を感じる事はありません。これが概念なんですね。人間は一人一人違って比較できない存在だというのが感覚の見方です。果物と決め7つの果物と言いますが、感覚では一つ一つが違う果物なんですね。分かりますか?これが感覚の見方です。

 テーブルの上にリンゴが皿の上に一個置いてあります。それを10人の人が見ています。10人が10人とも同じリンゴを見ていると思ってます。これが概念の人の見方です。赤いリンゴという言葉で決め付けてしまえば同じリンゴなんだということで考えなくて済むのです。でも、感覚で言うと10人が違うリンゴを見ているのです。

 それから一人の人と付き合うときも時間で違います。同じ人なんだから時間が違っても同じ人だと決め付けてみんな付き合うでしょう。昨日と今日は同じ人だから同じと思って付き合うのですが、話してみて違いが少し理解できます。ところが感覚は「違う観点」で感じるんです。同じじゃないのです。

 そして感覚というのは言葉では現れません。概念では現れません。概念の様に言葉の意味で現れてこないのです。私達が会話している時にその会話の内容はどうして現れますか?言葉として現れるので言葉にしてますね。何か意味のようなものがあって、何か言いたいことがあってそれが言葉になっています。概念の意味で作られたものが心の中い現れていると感じませんか?大体、自分が言おうとしている前に自分で吟味する人はいないでしょう。見えない言葉のようなもの、見えない会話のようなものがあって、それを表現するという人もいますね。私がそうしています。そのまま気が付かないで言葉にしているなんてありません。独り言はありますが。これが概念で感覚というのはわからないのです。どうして分かるかというと環境の中で自分が感じている意識の中で感じ取れるのです。

 自分がどうして人との付き合いが苦手なのかというと一人一人違うからというのが分かりました。そして一人の人と付き合うときも時間との経過で同じじゃないと感じているのでどうも付き合いが難しいんです。人間関係の難しさの分析の結果その様になりました。何が原因かというと自分自身の感覚なのでどうしようもないのです。

 そして概念で作られた環境とのギャップが生じます。これが苦悩として現れます。なぜかというと人間関係が常に何か隔たりを感じ、交われない、溶け込めない自分がいるのです。同じじゃないからです。まったく違うのでその結果過剰適応せざるを得ないのですね。それが自分自身の人生を形成してきました。教会に入る前の人生と教会に入ってからの人生がありますが、教会に入ってからの人生のほうが苦悩と苦痛に満ちた生活にならざるを得ないのです。でも、自分は鬱気味になりながらも微笑を絶やさないでいました。笑顔を作るのです。どうしてそうするかというと一対一の関係が崩れてしまうからですね。一対一の関係を良くするには自分が犠牲になる道が一番よいのです。だから過剰適応していました。そして内面の苦しさを表現するとその関係が切れてしまうからです。だから表現しないでいました。「微笑み欝」ですね。微笑まない人をみて羨ましく思ったことが何度かありました。

 感覚が実は愛の出所なんです。それを人間は良心と表現してきたのが最近分かりました。感覚で生きる人が愛の実体になれます。そして神の概念もここから現れていると思われます。人間の肉身は天宙の総合実体相でしょう。そこに人間の本性が潜んでます。それがすなわち人間の感覚だと私は最近感じてます。

 これははっきりとしてはいませんが最近になって見えない感覚を感じ取れるようになりました。感覚には特徴があり、エントロピー増大の法則のことも記事にしましたが、このエントロピー増大の法則はベクトルなんです。ベクトルは現在位置があり、それから力があり、それから方向性があります。それを二次元空間とか三次元空間に矢印で示します。そしてエントロピー増大の法則では完全に戻る事はできないのです。

 壊れた生卵を修正できますか?料理して完成したものをもとの食材に戻せますか?書けば切がありませんが、元に戻すことが出来ないのですね。熱力学でエントロピー増大の法則は使われて、私もその時に学びました。これは宇宙のアルゴ二ズムに従っているわけです。これを天法と言ってよいでしょうね。天法はただの決められた法のように感じますが、力と方向性があるのです。そうすればどうして肉身を土台として成長しないといけない理由も見えてきます。霊的成長というと何か見えない世界があって見えない世界だけで成長するんだと勘違いしませんか?肉身を土台としてというのが抜けてるのです。肉身の欲望は悪と決めていて受け入れられません。そこに大きな壁があります。

 

 

 

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