内的自己分析 庶子の世界は「私の世界」

 妾の子、庶子がどうして一般的に孤独といわれている人生を歩まないといけないのか、庶子の方に老いてはご自分が孤独だとか一人ぼっちだとか感じる事はありません。孤独とみるのは実は他の人が庶子を見たときに「ああの子は孤独な人間だ!」というんです。「孤独だからかわいそうな子だな、助けてあげなくては。さあみんなと一緒に遊ぼう。」と言ってあげるのですね。それはそんな子が寂しいから孤独だから遊んであげたいと思うのです。でも、本人はまったく違うんです。そんな事は感じてません。住んでいる世界が違うのですね。「私の世界」があります。

 何か沢山の人の中にいても隔たりがある感覚、みんなとわいわい騒いでお酒を飲んでいても何か客観的にみてどうして楽しんだろうと疑問を持つ自分、仕方がないからみんなと一緒にいるという自分、かといって人を裁いたりとか人をどうのこうのあまり言わない人、日常のビジネスの社会では何か変わった人、どうしてか一人でいたがる人、組織では難しい人、フリーターとか一人で好きなことをしたい人とかそんな現象が現れ始めていますね。昔の日本では終身雇用で一つの会社の中で働き続けるというのが常識でした。そして窓際族なんていう言葉もありました。年を取ると窓際に追いやられる人がいるからです。

 何か分からないのにその様になってしまう理由を最近になって分かるようになりました。自分自身がそうだったからです。それは何かというと自覚できないものでどうしてもそうなってしまっているのです。自覚できなくて修正できなくて、結果を見れはそうなっている現実がありました。同じスタートラインに立とうと努力を数十年間、実践してきましたが無理でした。自分でも分からなかったので、人生ってこんなに辛いものなのかと思っていたのです。しかし、その原因が段々と内的自己分析を重ねることで理解出来る様になりましたね。これはシェアーしないといけないことなので記事にしています。

 普通の意識ははっきりと自覚できるものなのです。意識に現れるのですが、感覚のものは意識に現れません。結果に現れます。私の場合はいつもスタートラインに立てない自分という結果が存在して、その理由が分からなかったのです。それは今まで自分自身が不足な為に、努力が足らない為に、意識と決意が足らないからとか、信仰が薄いからとか自分なりの評価をしていて努力を惜しまないであゆんていましたね。しかし、一向に良くなりません。人々は自分が変われたとか言います。だから自分も努力すればそのようになれると思ってました。

 今月ですね。それが理解でき始めたのが。感覚からくるものです。自覚できないものです。だから結果から来る自分の意識に現れます。現象界から来る意識に現れるのです。感覚そのものは現れません。ここがポイントなんですね。とっても重要なところです。

 今の人間は自分自身の意識を受け入れてません。自分の意識を受け入れないで生きるには概念で生きるしかないのです。それが現状です。この概念の世界で人間を復帰するには善悪闘争を通じて条件を立てるしかないのです。だから私達が学んできたカインアベルの復帰の摂理がありました。外的に二つに割くというのは善悪に分離することなのです。分離して一つにする時に死亡の血が流れます。これが人間の堕落性でしょう。ではこの目的は何処に向かおうとしているかというと、「私の世界」なんですね。

 自分自身には関係ないと思っているでしょう。実は自分自身の「私の世界」に向かうのです。