感覚と概念の違い 言葉は言った者勝ち

 言葉はどうでも良くて、いくら良い事を並べても裏切る人は裏切るんです。イエス様に従った人々は何を言いましたか?ペテロに何を言われましたが?水の上を自信満々に歩き始めますが、数秒後には沈みながら助けを叫びました。イエスについて「あなたこそ生ける神の子キリストです」と告白し称賛されながら、イエスの受難の予告を聞くと、すかさず「そんなことがあなたに起こるはずがありません。」と言って、イエスから「引き下がれ。サタン」と叱責を受けました。ゲッセマネの園へ行く途上で、イエスのためにいつでもいのちを捨てる覚悟ですと誓ったペテロに、イエスは「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょ目をさましていなさい。」と言われても、目を覚ましている事さえできませんでした。群衆がイエスを捕えに来た時、ペテロは剣を抜いて戦う勇気を示しますが、イエスから「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます」と言われてしまいます。そんなペテロが同じ夜、大祭司の中庭で自分がイエスの弟子であることを三度も否認してしまったのです。

 ユダの裏切りは「さて、イエスがまだ話しておられると、12人の一人であるユダが進み寄ってきた。祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群衆も、剣や棒をもって一緒に来た。イエスを裏切ろうとしていたユダは、『わたしが接吻するのが、その人だ。捕まえて、逃がさないように連れて行け』と、前もって合図を決めていた。ユダはやって来るとすぐに、イエスに近寄り、『先生』と言って接吻した。人々は、イエスに手をかけてとらえた。」(マルコ14:43~46)と書いてあります。

 言葉で誓いを立ててもいい加減なんです。いつかは裏切ってしまいます。それはどうしてなんでしょうね。ここに感覚と概念の違いがあります。概念はいい加減で通用するのです。講話で色々とお話します。素晴らしいお話もします。いろいろな説明をします。それから礼拝の説教は言葉ですね。だから何か良い言葉を沢山並べるととっても良い説教に聞こえます。内容は無視しませんが、内容はあまり変わらないですね。神様のお話をすると感動します。そこからもっと深い話をしましたか?誰かが自分の内側に住まわれる神様を感じるそんな人がいたなら、私はその話に耳を傾けるでしょうね。しかし、そんな話をした人は一人としていません。

 感覚の世界での誓いは自分自身にする誓いです。イエス様の周りの弟子達も一人一人が自分自身に誓うことが出来れば、自分の命をかけて前進していたことでしょう。そして言葉なんて必要ないですね。それをしないで弟子たちは概念に縛られているのでイエス様は信頼できなかったのです。すでにご存知でした。概念の人の話す言葉は変わるということを知っていらっしゃるのです。

 私は人の言う事を信じません。簡単に変わってしまうからです。だから裏切られても良いその心のスペースを作っておきます。裏切ってもその人を受け入れられるスペースを準備しておきます。そういう意味で完全に信じないという意味なんです。約束して裏切られたら許せないでしょう。だから許す道を作るために完全に信じないんです。どうしてかというと概念の世界であり、概念による人間関係だからです。これは仕方がありません。その様になっています。

 本当に信じられる人は私にではなくて自分自身に誓いを立てている人なのです。

 

 

 

 

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