今まで多くの宗教の教えがありました。確かに教祖といわれる人々は素晴らしい人々ですね。ところがここに一つの問題点があります。キリスト教のイエスキリスト、仏教のお釈迦様、儒教の孔子とかいろいろな人々がいます。実はこの一人一人の説かれた教えには教えになる前の感覚があります。そのまま言葉として現れたものではないのです。結局私達は言語化されたもの、時代と共に変わらない言語化されたものを学んだわけですね。それを沢山学んでそれが全てだと思ってませんか?

 そういうものに左右されない本質を見抜く力は物事に対してとっても中立的考えだからです。中立的考えを持つ人は本質に向かうことが出来るのです。自分もその様に努力しています。そうしなければ本質を見ることが出来ないからですね。おそらく中立で前進していくと本質にたどり着くと思うでしょうが、本質にはたどり着けないかもしれません。それが良いのですよ。

 イエス様といわれますが、イエス様の持っていらっしゃる感覚をどうして知ることが出来ますか?私は非常に疑問を感じます。その様な事を言えるのは概念で生きるからです。概念で生きなければそのような事を口にすることができないからなのです。感覚の人間から見ればその様な事は不可能だということです。

 一人一人を知ることさえ無理なのに、現在、生きていらっしゃらないイエス様を知るなんてどうして知る事ができるのですか?どうやってイエス様が当時人々に説いた言葉の背後の感覚の世界を感じ取ることが出来るのですか?無理なのにそれが出来るというのは頭で考えるからです。すなわち概念の世界なんですね。

 私には理解できません。無理です。不可能です。私だけが理解できないのでしょうか?それなのにみんなが口をそろえて「イエス様を理解しましょう」と言います。そしたら自分は言葉にはなりませんが「お前がこれを信じれないのはお前が不信仰だからだ!みんなが信じているのにお前には信じる力がないのか?」という感覚が襲い掛かってくるんです。だから非常に苦しくなりますね。そんなもんだと決め付けてしまえば考えなくても済む世界が概念の世界だと分かっている自分は忍耐しないといけないのです。こんな大した事のない、信じてしまえば問題ないのに、簡単なのに簡単に信じることが出来ない自分がいます。

 こんなことで悩まなくて済む人は幸いですね。羨ましいです。私は全てを疑います。疑うという意味は中立的物事の見方をするという意味なのです。これはどういう意味かというと私は自分の生活圏で感じましたが、物質を構成している素粒子があります。その素粒子を構成しているのが量子なんですね。この量子は「量子もつれ」という状態で存在しています。「量子もつれ」というのは確立で存在しています。原子の周りを電子が回っているという事を教わりましたがあれは嘘です。間違いなんです。現代科学ではそれを証明しています。ほとんどの人がそう信じてますね。

 信じるというのは形になっていて形を信じて疑いのないようにすることです。だから明確にして、明らかにして、文字化して、信仰を立てます。曖昧さを嫌うでしょう。曖昧なせかいでな信仰は無理であり、何か形になっているものに従わざるを得ないです。それが概念の世界であるので、私達の世界が出来上がっているのです。人間社会というのはハッキリしてますね。曖昧様を嫌います。だから変化に弱いのです。

 例えば何を話そうか一生懸命に決めたのに当日になってすみません子の議題でお話してくださいといわれたら、頭に来るでしょう。一生懸命に準備してきたのに。そう思う人は概念の人なんですね。それよりか何も決めないで言われた議題についてその時に対応できる人は感覚派と言ってよいでしょう。私もそれが良いと思います。私が話せないのはそのためかもしれません。あらかじめ決めたものを話すのは苦手です。でも根本的に文字化するのが苦手なので、おはなしするのも苦手ですね。自分の感覚が言葉になりません。

 「イエス様を理解しましょう!」どうやって理解するのですか?それについての説明がありません。それはお祈りにつなげるのですか?天心苑でお祈りすればイエス様が理解できるのですか?私には理解できません。分かりません。分からないので辛いです。

 

 

 

 

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