内的自己分析 生まれながらにして

 私は私が変わった人間であると言うのは、自分が自覚して言うのではなく他の人と比較して稀な人間であると言う評価でそのように言うのです。はじめに言ったのは私の母親が言いました。なんとも何度も言うのです。そして人見知りをする子だといってました。目を離すと何処に行くか分からないとも行ってましたね。

 変わった人間とか、変な人だとか、そのような評価と言うのは評価する時に結局そこには正規分布っていうのがあって、常に平均値がそこに存在するわけです。平均値のある範囲は、たくさんの人々が含まれていているわけです。その平均の中にいる人々は変な人間だとか、変わった人だとか、そのような評価される事はありません。

 ところがある範囲の平均値から外れる人を見たときに、結局その人は変な人だとか変わった人だと言う評価を受けるんです。これで変だと思いませんか?なんで私たちの社会には正規分布なんて存在するんですか?ほとんどが正規分布で成り立っていますよね。この正規分布を発見した人(正規分布はアブラーム・ド・モアブルによって1733年に導入された。この論文はド・モアブル自身による1738年出版の The Doctrine of Chances 第二版の中で、高い次数に関する二項分布の近似の文脈において再掲されている。ド・モアブルの結果はピエール=シモン・ラプラスによる『確率論の解析理論』(1812年)において拡張され、いまではド・モアブル–ラプラスの定理と呼ばれている。)も凄いと思うんですが、この人が発見しなければ、この法則が永遠に続くんです。何も知らないで永遠に続くのですね。

 正規分布があるので人々は同じなんだという見方です。でも人間と言うのは皆同じじゃないでしょう。個性心理体として描いているではありませんか。心という見えない世界では正規分布に当てはまらないと言う意味でしょう。正規分布で言えば、ほんとにどれぐらい稀な存在かって言うと、例えば80人億人の人口がいて、その中で個性心理体と言うのであれば同じ人が何人いれば良いのでしょうか? 1000人ですか?100人ですかそれとも10人ですか?

 それは個性真理体だと言わないですよね。2人だったらどうですか?その2人が同じだったら個性真理体っていいますか。言わないでしょう。だからの中の1人でなければならないんです。ならば何を基準としてそれが言えるかです。80億人類の基準値が存在しますか?よく考えてみてください。かなりいい加減だと思いませんが。そして私は80億人の中の一人といえるその世界があるというのです。それが何かと言うと「私の世界」の存在なんです。「私の世界」と言うのは、唯一無二の世界であり、80人80億人が住んでいてても、あるいは過去の人々においてもたった個人の唯一の世界が存在すると言う考えなんです。私はそれを感じてます。

 自分自身の生きてきた道がそれであったからなんですね。それを一般的には孤独と呼びます。絶対的な孤独と言う立場と表現しても良いかと思います。誰一人として理解することのない自分一人の世界という意味なんです。これでないと個性真理体って言う概念は存在しないことになります。何か他の理由付けがあったならば教えてください。

 実は人間の感覚から生まれる意識の世界っていうのはそれなんです。一人一人の感覚の世界と言うのは、誰にも理解できない。そんな世界なんですね。自分はそのような心境を通じながら生活してきたので、この人生と言うのは自分なりの分析で、ちょうど妾の子が持っている宿命の世界によく似ているなと感じます。私にはちゃんと両親もいたし、普通に愛されて育ってきましたが、何か自分でも理解できない生き抜くさを感じながらも、何とか適応しようとして努力しも、それがなかなかできなかったっていうのが事実なんです。だから生涯そのような宿命を追いながら生きていたようにも思います。

 内的自己分析によっていろいろなことがわかってきました。生まれながらにして人から理解を受けなくても生きることができるそんな訓練を受けながら来たかもしれません。自分の人生を見ると1人でいることも多かったし、1人でも喜ぶことできる自分であったし、1人でいることも別に寂しいと思わなかったのですね。

 そうして少年期、青年期を過ごし、そして初めて社会で生活するようになってから多くの試練を受けるようになったのかもしれません。教会生活の中でも試練を受けながら、そのような中で自分を最高の自己設定しながら何とか適応できるように生きてきたのだと思います。

 

 

 

 

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