感覚と概念の違い。言葉っていいかげん。

 人間の言葉っていうのはいい加減だなと思うこともあります。心を大切にする人は、話せる言葉と話せない言葉があるように、言葉っていうのは人の心を大切にしなければ、何を言っても構わないんです。人のことを考えなければ、嘘でも構わないんです。大げさに表現しても構わないんです。耳障りの良い心地良い言葉をたくさん言えば、みんなは感動してくれるんです。

 養老先生がよくおっしゃられる。日本の終戦の時に「本土決戦1億玉砕」と言う言葉を持って、日本の人々はそれを信じて、命がけで戦う決意でいました。ところが終戦後は何が起きたかと言うと、教科書に黒塗りを始めたということです。教科書は正しいことだ書かれているはずです。それが終戦で負けることによって、その教科書の黒塗りが始まったと言う体験の事をはなされていました。

 これは何を意味してるかと言うと、言葉っていうのは何でもありなんです。本来は何でもアリなんですね。私のようなものは言葉が使えなくなってしまいました。自分でもその理由は分かりません。子供頃に何でもかんでも話をしながら威張っている人を見て、そんな人にはなりたくないなと思っていたので、その影響も大きいかもしれません。だから次第に言葉を話せなくなってしまったのかもしれません。自分が無口になってしまったのも何か原因があるはずです。

 例えば人に謝るのも言葉だと簡単でしょ。気持ちがなくても言葉で言ってしまえばおしまいなんです。感謝すること気持ちがなくても言葉で感謝。感謝と言えばそれで良いんです。その言葉でその言葉が耳障りの非常に良い言葉なんでそれでおしまいなんです。感覚の私にとってはそれが言葉には表しませんが、許せない思いになったりします。だから次第に自分は無口にならざるを得なかったのではないかと考えてしまうんです。

 言葉なんていい加減であり、何でもアリなんです。心の部分が、感覚の部分が広がっていけば、いくほど何が起きるかと言うと、言葉数が少なくなってきます。言えないからです。概念で表してしまうとどうなるかと言うと、自分の気持ちと概念の意味とのギャップがあまりにも大きいので、言葉にしてしまうと、それに収束していってしまいます。結局自分で自分の首を絞めているようなもんなんです。首を絞めると苦しいもんだから緩めないといけないでしょ。閉めっぱなしなんてしていたら死んでしまいます。だから、無口にならざるを得ないんです。

 叱られて、その叱らないように自分の立ちを説明していました。ところが叱っている人にとってはそれは言い訳なんです。それも感じました。いくら理由を言っても言い訳なんですね。そのようにとらわれるんだったら言わないほうがマシでしょ。だから叱られたら注意されたら、自分の苦しい口を見るを固く締めます。それが一番良い方法だと思うからです。口を閉じると、またそれに加えて話すようになるので黙っているんだと言うでしょう。まるで何か言い訳してみろと言わんばかりも言い方もされます。それをよく知っている自分なのでさらに口を硬く締めます。

 他に一番良い方法はありますか?ありません。口を閉じて何も言わないのが一番良い方法なんです。だから私は自然に無口にを得ません。言葉なんていい加減なものなので、簡単に言葉にできないではないですか?自分が言葉にするときはその言葉に責任をくっつけて言葉にします。言葉と言うものは無責任なものだからです。

 もし人からあなたは何々に言ったじゃないかと言われたら、私はそれを受け止めなければなりません。たとえ自分に記憶がなくても受け止めなければならないんです。それは自分が自分の言葉に責任を持つためなんです。これはビジネスをしている時も、あなたや約束したではないかといわれたら、それを受け入れてました。

 そういうふうに生きると簡単な人生になると思いますか?その生き方をすると、苦悩と苦痛の人生にならざるを得ないし、それを一体誰に話すんですか?人に話したら意味がないでしょう。だから絶対に話さないんです。自分の中にそれを閉じ込めてしまいます。言葉を流暢に使って人を感動させようとする人々は沢山います。うまく説明して説得できる人もいます。でも私はその様な能力はありませんね。私は言葉っていうのはいい加減だなと思っています。

 これが実は概念による世界の現実なんです。だから人々は言葉に左右され、言葉の影響受けながら、生きなければならない姿になってしまっているんです。私は一応言葉を聞きます。自分からした言葉には責任を持ちますが、人の話す言葉に対してはちゃんと耳を傾けて聞きます。それは何故かと言うと、その言葉にその人の見えない心の部分があるので、人を理解するためにはどうしても必要なものだからです。言葉なしには人を理解するのはかなりの限界があります。私は決して言葉を否定しているわけではありませんが、今の言葉と言うものは感覚を抑圧し、感覚が麻痺してしまっているので、感覚に基づいた責任を持てる言葉が必要なんではないかと思うからです。

 

 

 

 

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