感覚と概念の違い 自分のものにしたくない?

 真理があるのであれは自分のものにしたくないのでしょうか?真理があるんだったら人に伝えなくてはと思っていましたね。殆どみんながこんなに素晴らしい内容があるんだったらみんなに伝えなくてはと思いましたね。今もそうではありませんか?それは私にとうてい理解できなくて、今も分からないでいます。聞いたら自分のものだと思っているのでしょうか?良い話を聞いたという時点で自分のものになっているのでしょうね。実はここに概念の人間と感覚の人間の違いがありました。

 概念の人々は素晴らしい言葉で感動し、素晴らしい内容で感動し、素晴らしい講話で感動し、素晴らしい説教で感動します。そして素晴らしい言葉を沢山使えば皆感動しますね。これは概念で生きている人々の特徴です。言葉と言葉の概念で感動しているでしょう。言葉の持っている意味で感動しています。文章が持っている文脈で感動しているのです。だからこの感動を他の人に概念で伝えなくてはと思うのです。

 それから概念は実は自分には関係ないんです。概念では自分の中にはいってきませんね。それはどうしてかと言いますと概念が持っている意味、言葉が持っている意味で全てが決まっているからです。その意味が全てでしょう。疑いません。言葉を疑う事はないですね。そして自分が絶対に正しいと確信しているので自分なんて見つめる事はないでしょう。だから概念で終始し、良いものを聞いたら他の人々に伝えなくてはと考えてしまいます。

 「何を書いているんだ?そんなの当たり前だろう!当たり前の事を書いてお前は何を言いたいのか?」と質問だれてしまいます。だから全世界の80億人の人々に真理を聞かせれば天国が出来るなんていう錯覚に陥ります。もともと概念はその様なところがあるのです。頭で考えたものなので現実の生活とは関係ないものとなっています。でも、それを実現してきたのです。それが都会なんですね。不幸のない、嫌な思いをしない、苦しい思いをしない、便利な、合理的な、予定通りに過ごせる、法律で定められた世界で安全に暮らす世界が幸福なんだと思っているのでその理想の世界を作っているのではありませんか。

 ところが感覚の人は良いものを聞いた時に自分のものにしたいと思います。私はそう思いました。だから一人に伝えたい気持ちが少し薄かった様に思います。それよりも自分がどうしたらこの言葉を日常の感覚で感じることが出来るのかということを考えるのです。

 みんなに伝えきったら何になりますか?何をしないといけないでしょうね。伝えきったら、皆が受け入れたら、天国がやってくると思っていた。その様に信じているでしょう。しかし、理論だけが、理想だけが、み言葉という真理だけが中に浮いてしまっているのです。だから何が起きるかというと分裂が再び起きてしまいます。み言葉を聞いただけでは、真理を聞いただけでは、素晴らしい話を聞いただけでは、分裂がなくなるかというとなくなりません。無理なんですね。その評価基準で人々を裁くでしょう。裁かない!と言っても無理なんです。意識が後追いなので皆さんの脳が人々を裁き始めるのです。無意識で人々を裁き始めます。なぜかと言いますとみ言葉が概念になっており、その概念で人々をはかって、それを言葉にしてしまうのです。私にはそれが見えます。なぜかというと感覚に戻されなければならないからです。それは一人一人の責任で成されないといけないことなのです。

 真理という概念は何の為にあるかというと、真理という概念で自分の中で理想のモデルができてますね。それは何の為にあるかというと自分成長の為にあるのです。日常の意識がありますね。その意識を量るんです。どれ位自分が自分の理想を果たせているかを分析するのです。そのための私達の日常の意識なんです。日常の意識が今の自分が作ってきたからだの現状なんです。被害者意識になっているというのはそれが自分なんです。人から心情を蹂躙されたと感じているとそれが自分なんですね。意識はいまの自分なんです。

 これをなんと言うのですか?私の本然の位置と状態というのではありませんか?違いますか?否定したい人は否定してもかまいません。それは堕落性の温床となっている概念の中で堕落性に麻痺しながら概念で生きることになります。戦いは終わりません。80億人類がみ言葉聞いても終わりません。

 

 

 

 

 

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