内的自己分析 本質を見る人

 私なりに本質を見るために努力している事があります。

 現代の評価基準で判断しない。ということが始めにいえると思います。今私達が住んでいる全ての評価基準はゼロにしないといけないと思っています。その評価基準を使ってはならないことです。これと関連したことで決め付けないことですね。評価基準を用いると必ず明確にしたくなります。明確にしてそして追求したくなりますね。私はそれをしてはならないと思うのです。

 これでは誤解が生じますから言い換えて説明しますと、評価基準の真ん中をさまような感じで求めていくことになるでしょう。それを他の言い方で評価基準をセロにしないといけないというのは中立にすることなのです。これと関連したことになりますが、評価基準というのは概念によって作られています。だから概念では本質を見抜くのは難しいでしょうね。概念はハッキリしてますね。正しいか間違っているか、善か悪か、良いことか悪いことかとかハッキリしています。だから概念の人々はハッキリすることを願います。そして未来を明確にしたいと考えるのです。都会がそれに適しているでしょう。都会に住みたいと思うのですね。自然界はそんなにうまく行かないし、多様性に満ちていて不安が沢山あるので、そこに行く事はしないです。予測が立たないところだからです。

 概念化するのは悪い事ではありません。本質を求める過程で布石を打つことが出来るので、その位置からさらに求めることが可能の様に感じます。実はこのような本質を見抜く為に必要なものが何かというと人間の感覚なのです。人間の感覚が意識に現れます。その感覚から現れる意識は今、この瞬間の環境を通じて現れた属性の現われなのですね。そうして意識に現れて、ひらめいたことを概念化することで一つの布石になります。

 これが個人において過去から積み上げてきた自分自身の脳が現すものなのです。そして意識に対する取り組みも非常に影響を受けます。本質を見極めるに当たって障害となっているのが意識に対する受け止め方なのです。基本的に本質を見抜く姿勢は何かというと、自分の意識の原因が自分にあるという事を認めなければなりません。全てを認めることが必要なんです。それは言い換えれば何かというと自分を素直に受け入れることなのです。

 日常の生活でいろいろな意識として自分は感じるでしょう。外的ないろいろな現象から色々と感じて意識に現れることだと思います。大体の人々は都合の良いものは自分に当てはめ、都合の悪い事は自分には関係ないとするのです。都合の悪い、痛みを感じる、嫌な事は受け入れられないのです。これは何を意味しているかというと自分自身の脳が作った意識を受け入れてないと言うことです。自分が作り上げた自分の脳が意識化しているにもかかわらず、自分には関係ないといっているのが私達の日常の生活なんです。これでは本質は見抜けないでしょう。自分自身に不信しているからです。

 だから本質を見抜く人になるためには自分の意識を認めて全てを受け入れて見つめる力が無いといけないのです。だから例えば人から心情を蹂躙されたから定められた法律を利用して自分の心情を蹂躙した加害者を罰さないといけないという考えは通用しません。これを越えなければ通用しないのです。どれくらいの人が越えられますか?

 イエス様は確実に越えていらっしゃいます。本当にイエス様を慕うのであればこの戦いをどうしてしないのですか?私には理解できませんね。概念で作られた概念の世界に使って概念で作られた活動しているでしょう。そしてイエス様を慕っているのです。私には理解できるものではないのです。

 私は本質を見つめます。これが私の生きる目的です。何処まで見つめられるか分かりません。死ぬまえ一生かけて求めたいと考えています。

 

 

 

 

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