感覚と概念の違い 堕落性本性が現れる概念社会

 どうして堕落性本性が概念社会で現れるのかを説明します。感覚の世界というのは人間一人の世界です。そして感覚で感じる世界というのは一つ一つの存在が別々の違う存在なんです。これは人間の感覚の機能を考えればよく分かります。そして自分の意識をメタ認知すると良く分かります。人間の行動は入力と出力でしょう。そしてその間は計算します。すなわちそれしかありません。それを宗教では計算の時点で霊界の精神世界の影響を受けるので霊界の力で出力が変わるといいます。悪霊の仕業で出力が変わってしまうといいます。それを科学で説明しませんね。信仰で信じてそれでよしとします。そちらのほうが正しいというのです。その様に考えている人々には今から書く記事は何の意味もないと思いますので読まないほうが良いかもしれません。

 以前から人間の本性が意識を中心として堕落性本性になったり、創造本性になったりするような内容を書いたことがあります。自分の日常の意識に対してどのように取り組むかによってこれが決まるのです。自分の意識が自分が原因となって現れているかそれとも外的な環境が原因となって現れているのかによって違うのですね。自分の意識が外的環境が原因となって表れているという評価をしているのは、自分の中で構築した理想のモデルがあってそれが評価の基準になっていて外的環境を評価します。そうするとそこには堕落性本性が現れるのです。

 人の中に堕落性を見たとします。李ヨハネ先生の説明では自分の中に相対するものがあるのでその人を通じて自分の堕落性が現れるので、堕落性の多い人が自分の堕落性を脱がしてくれるという説明をされてます。そこには自分が堕落性を感じたときに自分の努力で脱がなければならないと言う事を忘れてはならないのです。

 内的な理想の内部モデルという観点から見たら人の堕落性を評価したその結果自分の意識に現れているでしょう。その意識の原因はその人にあると見ると本当に実体で堕落性本性が現れるのです。しかし、そう感じたときに自分が原因だ、自分の中にその評価基準があるので自分がその様な評価をしたならば自分自身は未熟者であり、自分の理想を成せてないのでその様な思いを抱いたことに対して悔い改めるのです。ここには堕落性はありません。自分の意識を自分が原因だと言う事を認めて、自分の意識が今の自分の位置と状態を示していると感じれれば本性は自己創造、自己実現のための創造本性として現れるのです。

 概念の世界というのは自分の意識が外的環境から来たものであるという立場で生活することです。だから自分の意識を客観的に見つめる事はしません。せいぜい環境の中の自分の位置とか環境の中での自分の行動とか自分の運動の学習とかその程度なんですね。外的な動きとか形とそれからその意味との関係で生きることになるのです。それが概念の世界なのです。自分の中にある理想の内部モデルが概念として現れるのです。それが評価基準になっているでしょう。善悪の評価基準。正しい間違いの評価基準。良い行い悪い行いの評価基準は自分が今まで培ってきた価値観である内部の評価基準で自分の意識に現れているということです。これが概念の世界の特徴なんです。

 だからいつでも堕落性は現れます。そして神の存在を自分の肉体、皮膚の外側に求めます。善の主体を外側に求めるので悪の主体も外側に求めていくようになるのです。私達がいつもそう考えてますね。神の存在は何処ですか?誰が自分の中に存在していてそれを感じているという話をしてますか?今まで説教を聞いていますが誰一人としてそんな説教はしません。だから概念を越えるのは無理なんです。そして堕落性がいつも蔓延した世界にすまなければならないので、戦いと分裂が終わりません。南北統一を願うのであれはここをしっかりと理解すべきなんです。概念の世界では統一は無理です。歴史が証明しているように統一しても分裂します。

 

 

 

 

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