感覚と概念の違い 人間関係は一対一の関係

 私にとっての人間関係は一対一の関係ですから全ての人に受け入れてもらわないと困るわけです。セイロモータースを閉めてから私は10回職を転々としていました。板金塗装、3つのメカニックショップ、ウーバー、リムジンドライバー、2つ魚の配達員、卸の会社の車の整備、モービルサービスという感じです。その様な中でいろいろな人と出会いますね。一人一人の自分を受け入れてもらいたいので一対一の関係を生命視します。受け入れてもらえないとそれを覚えていて忘れることが出来ないのです。

 実際、過去何回か失敗して忘れられない人が数人います。時が来れば謝りたいのですが、あえないのでそれが残っているのです。普通の人は一対一の関係なんて持たないのですぐに忘れられるでしょう。「人間関係ってそういうものだからいちいち気にしていたら命が持たない。だからそういうものだと思えばいい。」と考えてしまえば簡単なんです。「世の中には悪い人もいるし、変な人もいるし、間違ったことをする人もいるし、そんな人々と付き合っても仕方がない。だから考えなくてもよい。罪深い人は、悪い人は関係持つ必要などない。」と思えばよいわけです。

 しかし一対一はそうはいきません。出会うと割り切れないのです。そんなの割り切ってしまえといわれるのです。簡単に切り捨てられるのです。ところが私には心の中の残ります。怨讐を作る事はどういう意味かというと心の中にその人を怨讐視した自分の未熟な後悔が残るのです。だからどうしようもないのです。割り切って生きる事が出来るのは概念だからなのです。

 概念て言うのはなんてもありなんですね。嘘でも本当でも言えばそれでよいんです。言葉で人を傷つける場合もありますが、耳障りの良い言葉、善なる言葉、神という言葉とか良い印象を与える言葉を沢山使えばそれでよいのです。それで素晴らしくて耳障りに非常に良いので人々に影響を与えられます。日本の終戦前では絶対に正しいとされていた教科書がありました。それが終戦後は間違った部分の黒塗りをさせられたと養老氏(日本の医学者、解剖学者。 東京大学名誉教授。 医学博士。 ニュース時事能力検定協会名誉会長。)はいわれました。それで何でもありなんです。正しいといってしまえばよいわけです。言葉というのはそんなところがあります。概念の特徴なんですね。だからいい加減に出来ます。

 一人一人が別々の存在を認めると大変なことが起きてしまうのです。だからそれは絶対に出来ません。一人一人の存在たと認めると一対一の人間関係を始める必要があるからです。いい加減な付き合い方が出来なくなります。言葉ではいい加減でしょう。適当のあしらっておけばよいことです。言葉に責任を持つ人はいますか?誰一人いないですね。

 動員で沢山の人を動員する為にいい加減な言葉を使います。車の販売も同じですね。いい加減に言う人が実績を作るのです。良いうそを並べれは良いのです。セールスマンとしては嘘でもよいから沢山言葉を並べたらよいでしょう。その言葉に責任を持つ必要なんてありません。だからそんな人がトップセールスマンとして賛美されます。私なんか一対一の関係で私はメカニックなので嘘がつけないですね。正直に販売します。すると車が売れないのです。馬鹿みたいでしょう。それで売れてないと評価を受けるのです。

 自分の目の前いにいる赤ちゃんも同じです。自分の目の前にいる赤ちゃんを一対一で接してましたか?殆どが経験しているから、いろいろな書物を見て知っていて知識があるので一対一としての接し方が出来ないのです。この接し方が概念の接し方なんですね。これを本当はゼロにしないといけないのです。全てのデーターをゼロにしてリセットして自分の目の前にいる赤ちゃんとの関係でデーターを集める必要があります。そして一人の人間の赤ちゃんとしてしっかりと見つめて感じとる感性が必要ですね。自分の肌身で感じながら子育てをするのです。これが感覚の人の子育てなんです。唯一無二の一人の人間として見つめることなんです。同じものではないと見つめることなのですね。そうして見つめられないので私達はどのように子育てしているでしょうか?他の子と同じでなければいけないのでいろいろな比較しますね。優れていないといけないので比較するでしょう。これが概念なんです。そこに何らかの正規分布の図が頭の中にあります。

 

 

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