感覚と概念の違い 感覚の人はどんな人

 みんな一緒なんだからと言う人は一緒でない違う人を理解することができないので、みんなと違う人を排除する傾向があります。現代社会っていうのはそのような世界なんです。それについて違う人の理解を深める為に記事を書いてみようかと思います。

 このような正規分布と言う図があって、それは真ん中が平均値であり、その平均値から、34.1%かの人は正常であり、それから外れる人々を異常な人と評価するんです。大体評価という概念の社会で使われるものであり、人々が沢山集まった社会のなかでデーターを収集して平均値をとって正規分布図を作成します。

 この正規分布は実は感覚の中には存在しません。何故かと言うと感覚と言うものは比較対象するものがないのでみんな違うんです。今の社会は皆違う存在だということが常識にはなっていなくて、みんな違うと感じてる人々排除し、あるカテゴリに押し込んでしまうんです。それがADHDとかH SPとかASTとかそういうカテゴリに当てはめて病院として扱うんです。

 正規分布の図もいろいろな評価基準があるんですが、特にIQテストにおいてはグレーゾーンと言うある一定の範囲があって、国の援助を受けられない。そういう人々が存在します。IQが高い人たちはまたそれなりに生きづらさを感じ、平均的な人々とは適応できなくて生きづらさを感じながら、ときにはうつ病になったりとか、ときには自殺を考えたりとかするんです。何故かと言うと、社会自体が正規分布に則って平均化することで保たれている社会だから仕方がないんです。

 それだから法律とか決め事が中心になって、社会を管理するようになっているのです。これが常識なので、変わった人、変人とか、あるいは変な人などは人々から理解されないで生きるしかないのですが、理解を望む人もいる中で別に人から理解されたいとか、知ってほしいとか、そのような考えもない人もいます。

 私の場合は関係なしには生きることができないので、何とか人との関わり合いをよくしないと生きることができないので、そのために過剰適応をせざるを得なかったわけです。そのようにして私は生きてきたので、教会の活動もしてきたのです。実は普通でないというのがよくわかります。どれくらい普通でないかは説明できません。何故かと言うと一人一人違う存在なんですね。

 それを図る基準がないんです。だから言葉で話してみても理解できるはずがありません。その辺簡単に人を理解してるとか、人がわかってるとか、人の立場がよくわかるとか簡単に言います。本当はみんな違うんだから理解できないと言うことを理解した立場でお互いに関係を持つように努力した方がいいんです。理解できる、理解している、と言う立場でお互いに関係を持つので、当然のように相手に要求し、相手に指示ししてしまうんです。わからないと言う立場で接すると相手を理解しようと努力するし、相手をより尊重できるんです。わからないのに相手に要求できないし、相手に対してどうのこうの言うことができないでしょう。

 知らない人に何か悪いことをするときにまず何らかの関係を持とうとしますよね。突然ぶつかったとか、何かの関係を持ってその人をいじめたりするんです。何の関係もなく何の理由もないのに、人をいじめる事は非常に難しいんです。一人一人が違う存在という意味はそういう状態なんです。外的な人間関係があったとしても、一人一人が理解できない存在であると知るならば、人の話をよく聞き、人の願いをよく聞き、人のことをもっと知ろうと、努力するはずでしょう。

 しかし、結局自分は何でも知っているから、何でも理解してるから、そんな人の話を聞く必要もないと思っている人かもしれません。それがまかり通っている社会なんです。概念が先行し感覚を抑圧している社会なんです。それが現代社会の根底にあります。

 原理用語で説明しましょうか人間の堕落性があるでしょう。それは人間の概念の中で見えない形で気づいているんです。堕落性は比較するところから始まりますね。そこに比較のための基準があると言うことなんです。感覚の世界っていうのは実は比較の基準がありません。何故かと言うと感覚と言うのは個人の特別な世界だからです。人とは無条件には共有できない世界だからです。だからそこには堕落性は存在しません。そのかわりその働きが自己の成長に関わってくるんです。今の自分と願っている自分の姿との内的な比較は可能なんです。自分が願い通りに成長してるか、自分が自己実現できてるかどうかと言う判断は可能なんです。そこには理想のモデルがあってそれに対して今の自分はどういう位置でどういう状態でいるのかと言うことを自覚するのが、自身の感覚であり、自身の日常の意識になるわけですね。

 だからそこには堕落性は存在しません。堕落性と言うのは外的に同じにする力がある概念によって現れてくるんです。私はそれを発見しました。ほぼ間違いないと思い思われます。だから、私たちが感覚と概念の違いを感じなければ、そして概念で生きているとするならば堕落生はいつまでたっても消える事はないでしょう。感覚を抑圧しているからです。

 感覚の私には感覚の人がどんな人か少しは理解できます。その人の言動に現れますし、その人の生まれ育った環境の中でどのような生活をしてきたのか、どのような人間関係を送ってきたのかと言うことを観察することによって少しは感じ取れます。大体世の中で現在の社会で生きづらさを感じている人々が感覚の分野が少し多いかもしれません。人間関係においても、何か自分自身が人々のいる中でも浮いているような感覚を感じたり、人と合わない感覚を感じたり、1人でいる方が良いとか思ったりする人はおそらく感覚の強い人かもしれません。人間関係の上下にとらわれない、人間が使っている評価基準にとらわれない、そのような人々もそらく感覚の世界が強いかもしれません。

 

 

 

 

 

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