感覚と概念の違い 同じでないと言う事は?

 同じ場所に住みながら同じでないと言う事は一体どういうことですか?感覚の世界は一人の皮膚で覆われてますね。現実的に考えても一つにはなれないでしょう。お互いに共有するって言っても何を共有しているのですか?皮膚の外の作られた被造物を共有している事になります。それしかないでしょう。どうして心の中まで共有できるのですか?それを霊界だとかスピリチュアルの世界だと言葉に表現してしまうとそれ以上考えなくてよいのです。それで全て説明が出来るという魂胆でしょう。それで私のような変人を黙らせます。少しきつい表現になってしまいました。

 私は仏教の悟りを得ているように思えます。仏教には「一水四見」という言葉があります。「一水四見とは、唯識のものの見方。認識の主体が変われば認識の対象も変化することの例え。 人間にとっての河は 天人にとっては歩くことができる水晶の床 魚にとっては己の住みか 餓鬼にとっては炎の燃え上がる膿の流れ というように、見る者によって全く違ったものとして現れるという。似たようなものに次のような古歌がある。」 ウィキペディアに説明されています。自分自身の人生の中で私はこれを発見しました。仏教なんて勉強していませんし、信者でも、修行者でもありませんが、日常の生活で私は自分で感じ取りました。

 実はこれはキリスト教にはありません。イエス様にないと言うお話ではなく神の存在を教義化されたキリスト教にはないのです。イエス様は前々から書いていますが感覚的な方です。神の存在を説明するのではなく私を通じて神を感じるというような表現をされてますね。これはどういう意味かというと感覚的な人間になって感じましょうということなのです。ところが人々は概念に縛られて概念でイエス様を評価した結果十字架に行かざるを得なかったのです。概念は罪人を定義し、罪人は刑を受けなければならないということでしょう。人間が作った概念によって処刑されてしまわれました。悪魔ではないです。人間が勝手に作った悪魔の定義が概念にあるだけなんです。神の存在を外に置かないとキリスト教が成り立ちません。そして反対の悪魔がいなければ神様の概念が成り立ちませんね。イエスキリストの十字架を信じて自分の罪を告白して十字架を信じる事はあるところまでは十分なのですが、今時代が変わってます。人間の内面に入らないといけませんね。一人一人が自分自身を見つめて自分の内面に入る、すなわち自分の感覚を感じることなのです。

 自分の身体は何ですか?創造主から創られたものでしょう。違いますか?欲望、悪、肉欲と言いながら悪の体なんていいますね。それは自分の体に潜んでいる本性を見えなくしているのです。内側に目を向けることが出来なくなってますね。肉欲なんて悪であり、悪魔の支配を受けてしまうので外の神様を求めて生きようとしているのは、この時代に内面に入らないといけないのに入れなくなっているのです。だから概念に留まり、戦いが終わらない、善悪の評価基準が残り、自分自身が見えなくなっているのが現状なんですね。

 養老先生が仰っているように概念は同じにすることなんです。だから一人一人が違うなんて思っても見ないでしょう。仏教ではそれを教えてます。こんなことを文章で書かれても分からないでしょう。自分を見つめられないと難しいです。いくら頭をめぐらしたところで概念で回ってしまいます。だから無理です。そして概念で生きると今、この瞬間が一番重要だということも実感できませんね。そして今というのは予定の中の今であり、未来のに対する願いの中の今であり、そのための今担って欲しいので、予定通りになるように望むのです。

 感覚世界は違いです。身体性は違いです。なぜかというと人間の五感から入るデーターは今この瞬間のデーターだからです。そしてそのデーターの中で自然界のものが良いのです。人間が作ったものではありません。人間が作ったものは概念によって作られたものなので無限の多様性がありません。だから予定が立てられるのです。無限の多様性が感じられれば予定なんて立たないでしょう。今この瞬間が重要になるからです。

 

 

 

 

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