内的自己分析 私にとって関心ないこと

 私にとって本質でない事は関心がありません。現象面の中に現れる本質については関心はあります。日常の現象の中で色々目の前に起きますね。その中での本質を追求する事は毎日しています。SNSとかメディアの報道は見て、読んで流すだけですね。その中でひっかっかる物はまれにありますが、殆ど流れています。特に政治の問題、経済の問題ですがあまり関心がありません。ただ自分は日常の中で生きる事が出来るものがあればよいのです。ある人は言うでしょう。世界がおかしくなったら日常の生活が出来ないよとかいますね。ではどうして世界を帰るのですか?損なので気やしないでしょう。世界を帰るのであれば自分が変るほうがとっても本質に迫っていると思います。世界を帰るなんて自分が生きている時に可能でしょうか?そして人間の抱えている本質的なものが解決できるでしょうか?それを考えると私はあまり世界の政治経済の動向は関心持てないです。裁判がどうのこうのとか、報道がどうのこうのとか、その様な評価は私にはありませんね。だからスルーしてしまいます。本質だけを見つめるのでそこには本質はないんです。現れた結果だけをみて評価するだけではいけないと私は感じているのです。

 私は本質を追及するので人から見ては不信仰で活動しない人として見られます。それは仕方がありません。人間の行動の中で、人間の作った社会のなかに何らかの人間の問題点があるのです。それが人間の意識を中心として現れている事を私は知りました。そして人間の意識が何なのか、人間の意識がどうして必要なのか、人間の意識は自分自身なのかとか色々と日常の生活で自分自身の意識をメタ認知して分析します。これが出来る人はほぼいないでしょうね。出来る人に会いたいです。お互いに共有できるからです。一人いらっしゃいますね。その方がピーター・チェンさんですね。8年ぐらいない炉と思いますが、何度か会ってお話してきました。何度もお話して感じるのは本質を見る目を持っていらっしゃいます。きっかけはピーター・チェンさんのほうからお誘いがあってお話が始まりました。それからいろいろな閃きを共有し合ってます。

 私達は感覚なんで正しいか間違っているのか分からないという立場なんです。概念の人は正しいか間違っているかハッキリしてますね。自分の意識を見つめてみてください。自分の意見は絶対に正しい、自分の意見は素晴らしい、自分の考えは素晴らしくて皆聞くべきであるとか思っているでしょう。これは概念の人で、自分の中にある記憶を回して理論で自分の正しさを確信しているのです。概念で作られた理論的思考回路で作られたのでそれは正しい事になります。間違った評価なんてそこにはありません。絶対的に自分が正しいと確信するのが普通です。だから否定を受けると気分が悪くなります。人の意見を取り入れられません。そうして概念の人は頭でっかちになり、頑固になってしまうのです。感覚は何でも取り入れようとします。どうしてかというと自分は正しいといえないからです。感覚は自分の中の世界だけでしょう。だからそこには評価関数が存在しないんです。評価というのは沢山人が集まってそこで正規分布の図を作って初めて評価が可能になるのです。だから感覚の世界では正規分布の図が存在しないのです。

 感覚の人は正しいか間違っているかの評価の関数はもってません。概念の人は正規分布の図が作れるので評価関数があって何でもかんでも平均値から換算して評価するのです。評価は平均値があるから評価するのです。感覚の人は人の意見を受け入れられます。どれくらいか分かりませんが、人の意見も可能性としてはありえると受け止めるのですね。しかし、概念の人は完全に間違っていると評価するので受け入れる為の隙間がありません。

 少しは感覚人間と概念人間の違いが分かっていただけますか。これからこの違いを少しずつ説明したいと思います。

 

 

 

 

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