内的自己分析 感覚を優先すると同じに出来なくなる

 養老先生の先ほどに記事に事のようなことを書きました。

 「感覚を優先すると同じに出来なくなります。人間というのはそれをどんどん進めて行きましたから、感覚を無視する世界を作ったんです。これが面白くってですね。よく講演するときは白板にね、赤いサインペンで青と書くんです。青いサインペンで赤って書きます。これで犬に字を教えられると思う。赤字で青って書いて犬にこれは青だと教えても犬はたぶん怒りますよね。それを平気で皆さんやっているんですよ。何で赤って言う字のほうが、目から入ってくる赤の印象よりも優先するんですか?それは勝手に優先するようになったんですよ。言葉使うから。感覚は下等だから無視していいということで、それを如何に無視するかという事は、逆に都会に住んでいるとしみじみ分かるんです。だから全部同じにしていきます。(中略) 感覚は出来るだけ出番がないようにしてしまう。私はこれが今の人を相当ある意味で傷つけているんですね。」

 感覚を優先すると同じにすることが出来なくなる。だから概念で生きるには同じにしないといけないので感覚を無視するのです。概念では人間皆同じでしょう。同じなんだから人間関係はかなり適当になりますね。別に自分に合う人だけ付き合えばよいし、合わない人は付き合う必要はないんです。別に無視してもなんともないのです。疎外しても何伴いのです。そして人間関係で関係を名目としていい加減に人を取り扱います。だから皆名札で人を見るでしょう。そしてなるべく知られていて影響力のある人を選びます。有名な人を選びますね。人を騙してもなんとも思いません。人が付いてこなくても他にふさわしい人がいると判断します。全員が感動しなくても大体の人々が感動すれば講演は良かったと判断します。色々と書いたら切がありませんね。

 イエス様はそんな教えされませんでした。どんな人でも一対一なんです。乞食であっても、非難を受けている女性であっても、どんな人であっても一対一の関係を命にされてませんでしたか?ご自分から見捨てることもされましたか?被害者になられましたか?100匹の子羊の中の一匹がいなくなっても、問題児であっても一匹の関係を生命視されるのです。それはどうしてかというと100匹の一匹一匹を同じとしてみていらっしゃらないからです。同じにしてみると、そんな一匹の為に時間を割かなくても良いでしょう。足手まといになるばかりでしょう。ほうっておけば良いことです。これが概念の考えなんです。

 感覚優先の人生は同じに出来なくなるので人間関係は必然的に一対一の関係にならざるを得ないのです。これが私の人間関係の作り方でした。だからどんなに大変か想像出来るでしょうか?いい加減な人間関係は自分が満足しません。人は何かがあると変わってしまいます。だからそれを見越して絶対に裏切らない関係を持つ為の最大の努力を重ねてしまうのです。理論理屈ではないのです。概念は理論理屈で考えますが、感覚は直感のせかいであり、現れる自分の意識がその様になっているので、その意識に私は取り組まなければ幸せになれないのです。本当に困ったものです。

 いい加減な人間になりたいものです。だからわざと無視することも最近努力しています。あまり気を使いすぎると関係もギクシャクするので今色々と考えています。メキシカンの人間関係が非常に参考になりますね。

 

 

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