内的自己分析 生きる夢を与えられるか?

 ひきこもりUX会議代表林恭子さんの経験を聞いてました。わたしの姉も同じような経験をしてました。同じ兄弟姉妹で、兄は50年間引きこもりです。一番上の姉は一応大手企業の奥さんで過ごしてきました。子供も2人の女の子がいて結婚し子供が生まれてます。この方の情報はネットで調べられますので知りたい方は調べてください。

 自分自身がどうして引きこもりにならなかったのか?を考えてみると卓球ですね。中学、高校、そして大学まで続けた部活が引きこもりにさせなかったようです。ただひたすら技術をマスターして強くなりたい一心だったので、練習しないといけないでしょう。

 それから自分自身で喜べる世界があったからでしょうね。一人でいても自分で何か喜びを感じることをしたいと思ってました。学生時代は林恭子さんと同じような生活していたので大学の授業はあまり行きませんでした。この事実は今まで書かなかったのですが、あのアインシュタインでさえも学校の授業をサボってたということでした。理由はまったく違いますがさぼったという事実は同じだったので少し安心しました。授業に行く気になれなかったじぶんがいました。罪悪感があってその授業の事で自分を責めていたのは事実です。しかし卓球の練習だけは休まず行きました。

 考えてばかりいて何もしていないのに頭が痛くなってしまう時もありましたね。大学の近くのアパートで一人で住んでて、アパート暮らしの約二年間は誰一人として遊びに来る人はいませんでした。たまに私は卓球部の同輩のアパートに行く事はありました。それから近くのジャズ喫茶に行ったり、普通の喫茶店に毎日の様に行きました。外に出ることがあったので自分は引きこもる事はありませんでしたね。何か自分で楽しめるものを探していたからです。外の人から見るとまじめではなかったんです。授業を毎日出席して勉強するまじめなタイプでありませんでした。試験は一夜漬けです。それで大学四年生で卒業予定まで行きましたが、結局英語の単位が足らなくてもう一年留年しました。その期間に私は教会に来ました。大学の5年目にはある女子大の卓球部のコーチもしていたので引きこもりなんて出来ないですね。

 教会にはすべて犠牲にして自分の一人の喜びも犠牲にして、さらに戦いの多い世界に飛び込みました。だからそこには喜びなんてありませんでしたので、何か喜びを模索しながら歩んでました。それがなければ忍耐のみで限界が来てしまいます。そして引きこもりなんてなってたら大変でしょう。認められなくなります。人一倍承認欲求が強くて、過剰適応していた自分は重い錘を持ちながら何とか体を動かして、みんなと同じスタートラインにたって頑張ろうとしていました。だから引きこもりに成る事は例外がありますがほぼありませんでした。例外というのはたまに3日間だけ引きこもりになってました。月に1度とか2ヶ月に1度とかありました。

 そのとこの様子を覚えてます。夜寝るときに「ああ朝が来ないでほしい、寝たら朝が来てしまう。また同じ嫌な事をしないといけない。」という思いと、「みんなと一緒に頑張らないとみんなの足を引張ってしまうと迷惑かけるし、やっぱり頑張らないといけない。自分に対する評価も悪くなる。みんなが自分を信頼しなくなるので、そっちのほうが困る。」とかという天秤をかけながら、どっちに傾くかで決まるのです。「そしていやだな、このまま寝てたい。」という気持ちが強くなってしまうと、起床時間が迫ってくるでしょう。でも動けないです。起床時間になっても動けないとなんだかさらに気分が悪くなって、そのまま布団の中で悩んでるのです。でも不思議だったのは呼びに誰一人来なかったのが不思議でしたね。大体誰かが起こしに来ます。そして仕方がなくおきて行くんです。それは何回かあったかと思います。思い出せません。そんな戦いをして日本の10年間がありました。アメリカに来てからはまったくなくなりました。朝起きるのが恐怖という恐怖感はかなり弱くなりました。

 この林恭子氏が経験されたことをよく理解できます。この方の意識はやはり自分の内面を客観的に見つめられる一人だと感じます。自分の身体性から来る自分の感覚を見つめられる人なんです。自分は結局食べて排泄するだけなんだという表現です。その生きる意味をまったく見出せない状態でしょう。私の姉もそうだったと思います。兄もそれで苦しんでましたね。だから末っ子の私にもそのDNAを持っているのでしょう。

 最近はそんな人々が増えているように思います。世の中は概念の社会構造になっているのは確かです。深く分析すれば明らかです。概念で生きる人々には分かりません。気が付ける要素がないからです。この概念の世界で生き辛さをかんじている人の中で苦悩を感じている人はその可能性を持ってますね。特別な人だけがこの社会は概念の社会構造になっているということが分かる人なのです。この概念の社会の中での兆候が現れてます。いろいろな現象として現れ始めてます。フリーター、ジェンダーフリー現象、学習障害というカテゴリー化が増えてきたこととか色々とあります。これからどんな世界に突入していくかというと、概念の世界から今段々と増え続ける感覚人間が支配し始める時代になるのです。

 この感覚人間がみ言葉の表現をしますと庶子の立場の人々です。社会の名の知れた人のなかに妾の子が多いとみ言葉で書かれています。妾の子は庶子なんです。この群れが段々と増えているように感じます。この環境が変わっていけば感覚人間の人が生きやすくなるでしょう。概念で生きている人が逆に多くの試練を受けることに成るのです。これがすなわち善悪交差の時代であり、カナンに定着できるか否か、正午定着の人間になれるかというふるいに掛けられることになります。現代では大体の人々はNGなんですね。教会の方々も同じです。概念で悩んでますね。なかなかみ言葉の実体、み言葉の生活化まで行きません。それは何を意味しているかというと感覚に戻れないからです。み言葉は人間の概念と感覚の問題になるのです。だから私はみ言葉をあまり使いません。概念で留まってしまうからです。み言葉の生活化、実体になるためにはどうしても人間の概念と感覚の問題、一人一人の意識の問題に関わって来るからなのです。

 ではどうしたら生きる夢を与えられるか? 

 そのポイントが一人一人が作ることが出来るユートピアです。一人一人が最高に感じることが出来る天国が可能であるというシステムがこの現象世界と人間にあるのです。それが現実にある一つの世界、誰もが認める創造された一つの世界とそれから一人一人に宇宙を与えられた、自分で自由に喜びを中心として作る事が出来る宇宙を与えられたといってもおかしくない現実の中にその様な機能があるという事なのですね。だから一人一人が好きな宇宙を創造出来るんです。それは作られた一つの世界を土台として可能なんですね。それが肉身生活の目的になるのです。これは凄いと思いませんか。現代科学で量子論で現れ始めた多世界解釈なのです。それを私は以前から「私達の世界」と「私の世界」という表現で紹介していました。この考えの科学的な証明は今出来てませんが、自分自身の意識を分析する中で現象面で理論ではなくて感じ取れるのです。だから私だけの幻想かもしれません。

 

 

 

 

にほんブログ村 海外生活ブログ ロサンゼルス情報へ
にほんブログ村