人を愛するとは

 人を愛するとは必ず対象が必要だと言います。対象がいろいろな対象になっており、その対象で現れる愛が違いますね。それは第二祝福で説明されてます。ところが個性完成しているという前提で対象との愛が成立する事を忘れてはいけないのです。私達はそこが失われているのです。何が失われているかということを少し説明してみますね。失われているものは感覚なんですね。

 私は少し違う感覚を感じています。感覚は一対一の関係を持とうとします。これは感覚がその様になっているからですね。人間はコンピューターの機能の様に理解できます。これは養老猛司氏がすでに説明されています。入力と出力があり、その間に計算があります。入力は人間に基本的な肉的五感からのいろいろな外部の情報になります。出力は何かというと人間の筋肉が動く時なんですね。私達の言動は全て筋肉で動いています。その様な入力と出力の間に何があるのでしょうね。ここが問題なんです。

 そこに宗教の人々はやたら外部からの影響を言います。それが霊的な作用ですね。それが人とつながっているとか先祖とつながっているという理論があります。私はそれは何の目的でその様になっているかという理由が見当たりません。そして意味が見つからないのです。科学的に説明もつかないところなんですね。だからその信憑性はかなり低いと私は考えているところです。一人の個体、皮膚の中の出来事なので、全て一人の固体の中で考えないといけないでしょう。だから私は一人一人は別々な存在であるというのです。殆どの人はその様に思えないでしょう。このように言う私自身が攻撃されてしまいます。

 昔、十数年前にある二世に否定されました。そんなわけがないと言うのです。ネットでも知られた人物でした。あの時から納得できる考えが私の前にいまだ現れる事はないのです。それよりかは一人一人が別々であるということの信憑性のほうが科学の世界では高まっているのです。これからの内容は一人一人が別々の存在であるということをもとに書いていきます。ただ、完全に否定できないのは量子力学の世界があって量子もつれ状態ではつながっている可能性があるからなんですね。

 最近は多世界解釈の現れてます。一応私の考えを書いておきますね。科学の世界ではまだとかれてません。これは一人一人には事実の世界(有形実体世界)と一人一人の意識を土台とした幻想世界(無形実体世界)があって、事実の世界で私達は私達の世界を作りみんなで生活しています。いわゆる私達の世界なんですね。それから私の世界があります。これが個人の誰にも干渉されることのない、感覚を土台として作られる私の世界です。有形実体世界は一つなんですが、無形実体世界が一人一人にあるので人間の数だけ存在するという考えです。それは無限の世界が創られるのです。これが私の多世界解釈です。

 一人一人の感覚があります。これは皮膚の内側で閉鎖された世界です。だから一人一人の感覚を他人が感じる事はほぼ不可能です。ほぼと書きましたのは量子もつれがあるので完全に否定していません。閉鎖された一人一人の感覚があって、肉身の肉的五感の入力信号は誰一人として干渉できません。そしてその信号を計算します。この計算の過程においても誰一人として干渉できないでしょう。誰から超能力で操りますか?見えない力で操りますか?それを信じますか?絶対的信仰があれば可能でしょう。そうして外部の環境を相対的に何を感じるのでしょうか?それは自分自身を感じるようになっています。それが日常の意識に現れていると私は感じてます。

 これが実に本然の自己の位置と状態を示しているのです。100パーセント自分自身なんです。だからそこには何の言い訳もなく、何の逃げ道もなく、認めるしかないのです。これを認められるようになればこの立場がすなわち人を無条件に愛する基本的な位置と状態になるのです。

 愛のある人というのをもしも評価するならば大体愛する行動をみて評価しますね。人の動きをみて評価しています。その様に感じるようになっています。では、非常に頭の良いある悪人が義人の様にして人を愛しているとします。動機が人を騙す為だったらいかがですか?その可能性がありますね。それは動きでは分からないのです。だから演技が可能なのです。役者は演技しますね。本物に近ければ近いほど良いですね。演技の上手な人なのです。それが可能なんです。

 現代でも色々人を騙す手段で使われてますね。良い評価を得て人を騙すんです。その可能性もあります。心た行為が違っても人を騙せるのです。そのように見せかけられるのです。何が問題かと言いますと、こんな人がいるということでしょう。この人は愛の人といえますか?愛の人格者といえますか?いえないですね。だから愛というのは行動なんですが、人を愛することが出来る状態でなければならないのです。それがどんな人かというと感覚の人なんです。

 感覚の人とはどんな人でしょうか?それは一人一人が違って見える存在なので自分と一人の対象の関係を生命視する人になります。永遠に良い関係でいたいでしょう。永遠に信じあえる関係でいたいですね。だから人を騙すなんて出来ないでしょう。約束は絶対に守りたいと思うでしょう。影で悪口なんていえないでしょう。表と裏を作って関係をもてないですね。本音と建前なんてありません。裏切り行為は自分の死を意味しています。そしてすべてを自分の責任としなければなりません。そうしないと良い関係がもてないからです。責任を放棄したり、責任を相手に擦り付ける事はできないのです。全部自分の責任として受け止められる人が感覚の人間の特徴です。それが自分の命にかかわっています。この人が自然に人と接すると何になって現れますか?それは自然と愛という形に表れるのです。

 概念で生きる人はいい加減なんです。どうしてかというと一対一の関係で関係を無視できるからです。概念で生きれは簡単に無視できます。だから関係も一時的な関係でよいのですね。何の問題もありません。その時の関係だけでよいわけです。楽ですね。だから影で悪口言っても、本音と建前があっても、嘘をついても、偽りを言っても、偽者であっても何でもありなんです。役者にもなれますね。悪人なのに善人の振りをして振舞うのです。それから言葉は何でもありなんですね。言えばそれで無責任でしょう。それで創られている社会なのですね。そこに感覚の人が住むと大変なことになってしまうのです。理解できるでしょうか?

 人は愛を語ってますが言葉で表し、言葉で評価していますね。感覚で感じるものがありません。感覚で感じないで愛を語ると概念になってしまうのです。頭で考える愛を語ることになるのです。凄く気楽出よいなと思ってしまいます。愛とか神様とか言葉を使うだけで感動しますね。だから沢山その良い言葉を使うだけで何でもありなんです。私はそれができません。分かっているのでそれをしたら自分の命にかかわります。

 神様の活動しているんだから何を言ってもかまわないというのもありましたね。心の中になくても言葉に出すことで事が成るということを教わりました。組織でも中心は神様の立場でしょう。だから侍りなさいとも教育されてました。なんでもありなんです。そこには愛も沢山語ってよいのです。しかし、何かが抜けてました。それを感じる私は、私が駄目なんだ、私が不信仰なんだ、同じようにスタートラインに立てない自分を責めてました。それで私は暗闇を感じてました。暗闇の中を手探りで歩んでいる自分を見つめてたんです。

 でもこれだけは書いておかないといけないことがあります。これは私にとって必要なことだったのです。このようなところを通過することで私の脳を作ってきました。だから私は本質を見つめることが出来ます。周りの環境に振り回される事はないのですね。影響も受ける事はないです。概念の世界を見てきましたから影響を受ける事はないのです。その土台で本質を求められるので特別なんです。

 

 

 

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