苦悩、苦痛、困難な状況に出会った時にどのように考えてどのように努力していくのかということを感覚の人間の立場で考えて見ます。感覚の人の考え方というのは基本的に私の責任として感じます。感覚は日常の生活のなかで、今、この瞬間の、この時間が重要であり、とどうすれば自分で解決できるかを考えるのです。逃げるのも一つの手段かもしれないし、そこで解決するのも一つかもしれません。それは自分の判断にゆだねられます。最近は環境が非常に良くなってきたので極端な環境、すなわち戦争とか殺し合いとかその様な環境に遭遇する事はほぼありません。事故、災害とか、人為的な被害を受けることはあるかも知れませんが、ごくまれな現象です。だから日常生活では逃げるという手段も一つの手段かも知れませんが、逃げないでそこで克服するのが一番よいのです。

 私が日本で歩んだ時の苦悩の期間について記事にしたいと思います。私が教会に来た時に自分の時間がなくなる、自分が楽しんできた個人的な楽しみもなくなる、そして唯一の個人の時間の楽しみを犠牲にしないといけない、そして合えて苦痛の海に飛び込んでいかないといけないそんな感じでしたね。多くのものを失って教会に飛び込んでいったのでさらに内的な戦いは多くなりました。そしてそれを自分が表現できないので微笑みうつになるプロセスを歩み始めるのです。これは感覚の人間の生き方なので仕方がないようです。感覚の人間は責任は私の責任になってしまうのです。だからいろいろな苦痛を感じても困難なことがあっても、自分の努力が足らないので、自分の決意が足らないので苦労しなければならない、戦わなければならない状態になっているんだと思ってました。人と同じスタートラインにはじめから立てないので何とか立とうと努力していたのです。

 でも感じる感情を表に出せないですね。感覚人間は一対一の人間関係を持とうとするので表にそんなマイナス的な言動をしたら直ちに亀裂が入ります。それを恐れるあまりに微笑みうつのプロセスを歩むのです。もしかしたらその時に病院にいけば鬱病だという診断を受けるかもしれません。病院にはいかなかったので診断されル事もありませんでした。当時自分は鬱病なんて自分には関係ないものだと思っていました。だからいく必要もないですね。でも同時は苦悩と苦痛は毎日でした。

 これは自分が寝ている時だけありません。だからそのままずーと寝ていたいということも考えました。すぐに先の事を予測してしまって何が起きるかイメージしているのでその時間が来て欲しくないんですね。逃げたいんです。就寝の次官がやってきて休む時が次の日の実績を決定するので休む時は重要なんだと教えられます。それが朝出発する時の決意になるというのです。私は夜寝るのが恐ろしくて仕方がありませんでした。布団に包まって目を閉じると自分の目が覚めたら朝がやってきますね。そしたら何をしないといけないのかすでにイメージしているのです。だから目が覚めてから動くのがとっても苦痛なんです。今日も一日嫌な事をしないといけないと思うと重い石を背負いながら起きるみたいな感じです。そんな毎日を送ってました。それは日本での10年間の歩みでしたね。

 そんな困難な中で教会を離れる事はできなかったんです。なぜかというと自分は教会に来る前に自分自身に誓ったからです。「もう一度教会から導かれることがあれば一生この道を行きます。」という誓いの言葉でした。深い悔い改めを一人で住むアパートでしたんです。自分で教会に行けばよいのですが、逃げ道を作ったんですね。導かれることなんて殆どないだろうと思いました。だから「もし導かれた時は」という前置きをしておきました。自分に誓いを立てたのです。こんな困難が訪れるとはその時考えもしませんでした。なんとそれから40日たって神戸から大阪の旭区のアパートに夜の11時にやってきました。誰かというと私の姉です。それから自分に誓った誓いどおりに生きるのです。

 5年ぐらい立ってとんでもない試練を受けて生きる屍のようになりました。その期間あまりの苦痛で闇をイメージしてましたね。そして一点の光が見つかればよいなと思ってました。闇は希望のない世界です。ただ人と共に歩む中で自分は闇を感じながら、何とか希望を見つけようとしていたようです。だから同じように行動してそこで希望を見出す努力をしていました。人生ってこんなに闇なんだと思っていました。他の人もそうなのかなと思っていましたね。そんな苦悩と苦痛を感じながら外的には現さないで歩んでいました。なかなか光を見出すことが出来ませんでした。暗闇の中を手探りで歩んでいうるという日記には表現していたと思います。

 ある人は調整日があるんです。一ヶ月に一日の休みの日がありました。あまりの疲れで私にとってはその日はあってもなくても同じだったんです。そうしたら私の上司が書いた反省文に「昨日調整日で十分に休んだでしょう。何をしていたんですか。」というコメントを残したんですね。表現しないので反省文を読んでそれでコメントを上司は書いてくれました。ああそんな視線で見られているんだと思ったのです。人は分からないのだなと思いました。理解しようとはしないんだと思いましたね。そう思っても自分自身の責任なので現しませんでした。その様に思われても歩んでました。

 楽しくて仕方がないと言う人の歩みと苦痛の私の歩みと全然違うでしょう。だから現れる実績も違うのです。現れた実績で評価されます。そして良い実績を出した人だけ評価されるのですね。だから私はよき評価された事は殆どありません。実績が出ないんです。その前の戦いが激しくて具体的な実績にいたることが出来ないのですね。

 マッチング会場で私に対してわけの分からない言動をされたのはアボジだけです。考えられない評価をされたのは今でも分かりません。日本での歩みはどれほど厳しいかは日本で歩んだ人だけが分かりますね。私が入った時が特に一番厳しい時でした。流れが変換して実績主義になった時だったんです。私の姉は東京のもっとも厳しい環境の下で先生をしていました。しかし姉は結局三人の姉妹で抜けだしました。これは言葉では言い表せないので控えます。

 抜け出して自分の人生を歩みました。そしてある日私は姉に私は導かれて感謝しているといった瞬間に「私はあなたを導いて後悔しているわ。」といわれて返す言葉がなかったんです。私は一度もその姉に対して帰って来いとかいろいろな評価をする事はありませんでした。そのままの姉を受け入れる努力だけはしていました。あるがままの姉を受け入れるのです。私がその様な見方を出来たのは兄を見ていたからです。兄は20歳代の頃から引きこもりで家にいるのです。そして仕事もしないで生活してきました。現代の概念の社会の犠牲になった感覚の人の姿です。でも、そのままの兄を受け入れる努力をするのです。みんな精神病だからと言ってました。誰一人として一人の人として見る事はできなかったのですね。私は兄を一人の人としてみてたので精神病だという目では見ませんでした。これが感覚の人の見方です。一対一で永遠の見方をするのです。

 今の社会は少しの違いがあるので精神病として判断しますね。そこには必ず正規分布図が存在するのです。私はその時も感覚の人間でした。感覚の人間が持っている人との関係を持とうとしていたんです。しかし、その社会が概念で出来上がっている社会なのでとんでもない苦痛を感じながら歩んでいた私なんですね。

 この苦痛が私の内的成長にかなり加担してきたようです。そんな中で私は私の脳を作ってきました。私の脳は日常生活の中で周りの環境の情報を取り入れて私に意識にして現してくれます。面白い表現ですね。私はこんな感覚を持っています。私の意識は私ではないのです。私が作ってきた私の脳が今の現状の私を教えてくれているのです。だから自分の理想をどうしたら果たせるかという良心作用というものが働く様になっています。

 1988年の6月から三ヶ月の間、旅行ビザでアメリカに来ましたから90日の滞在を許可されています。その期間グロースターで訓練を受けてました。これが私の人生を大きく変えました。もう日本の圧力には耐えられませんでした。アメリカの空気を吸ったのでここに来なければ自分は駄目になると感じていました。

 

 

 

 

 

にほんブログ村 海外生活ブログ ロサンゼルス情報へ
にほんブログ村