内的自己分析 私は感覚人間

 微笑みうつ、過剰適応、承認欲求、八方美人とか全ての人に好かれたいタイプの人がいます。それが私です。どうしてその様な人間になるかを説明しますね。「全ての人に好かれて、全ての人に認められて、全ての人に受け入れられる自分物になるなんて無理だ!」と思います。だからこんな私のような人は馬鹿だといわれるでしょう。そんな無理なことを願っても仕方がないのに馬鹿だという目で人々は見ます。

 実はこれは概念の人が見る目なんです。全ての人という集合の中の私、一人一人という見方です。これは概念の特徴なんです。感覚は何かというと一対一の関係しかありません。全ての人が違うのだから全ての人にあわすのは不可能かも知れませんが、基本的にはすべの人に同じように全ての人に好かれて、全ての人に認められて、全ての人に受け入れられるように自己設定しなければならないのです。そうしなければ自己実現が出来ないのです。これはあまり概念で生きていて判断している人には理解できないことなのです。

 イエス様がそうでしたね。差別される事はありません。一対一の関係ですから差別だとか、乞食だとか、王様だとかその様な人間に名札をつけて中身を分からなくしてしまう概念の世界ではなく、人間の中身と一対一で関係をもちたいのが感覚の人の願いなんですね。100匹の子羊がいるでしょう。「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。」とイエス様は仰いました。一匹、一匹が100匹に相当するんです。一匹が居なくなっても100匹がいなくなたと同様なんです。だからイエス様は感覚の方であるといえるのです。

 感覚人間は一人一人の人間がまったく別々の人間であると見ます。それがそうでないと見えるのは概念が影響しているのです。どうして同じなのかを説明します。使っている言葉があります。その言葉の意味があります。使っている言葉は形になっていて勉強した人だけが理解できるようになっています。そしてその言葉の意味があります。この意味が自分の感覚に狭い感覚としてあります。この感覚自体は別々なんです。だから同じ言葉でもしばしば理解が違うこともありませうね。なぜ同じになってしまうかというと感覚がその狭い意味付けだけに留まっていて、用いている言葉の形が同じなので、同じ形を用いている事で感覚が抑圧されているからなのです。それで同じ形(言語)と同じ意味を使うために違いが分からなくなっています。感覚があれば、すでに感覚は一人一人住む世界が違うので違う世界にいても不思議ではありません。感覚から現れる意識は違う世界から現れてるので同然違うのです。概念がそれを分からなくしてしまってます。

 だから感覚の人は一対一の関係を永遠に持ちたいと思ってます。二人で同じ世界で仲良く暮らさないといけません。そしたら信頼関係を結ぶ必要がありますね。そんな中で自分が責任を持たないと良い関係を持つことも出来ませんね。極端もう一人の人が色々怒っても、自分に責任を擦り付けても、自分の悪口を言ってても、それに対して反論していたら一生戦わないといけないでしょう。遠くで分離して生活しないといけないわけなんです。それは苦しいですね。生きている気分になれません。喜びなんて得られないでしょう。だからどうするのですか?全部自分の責任にして全部受け入れるのです。そうしないと良い関係がむずべないのです。その基準を目指して一対一の関係を持とうと自己設定するのです。

 私はそれをしてきました。それを理想として努力を重ねていました。概念の世界ではこれを無視します。こんなの関係がありませんね。こんな人間関係を持っていたら何も出来なくなってしまうとか、優劣も付けられなくなり、善悪の評価基準も立てられなくなり、自己を正当化できなくなります。逃げ道がなくなるので絶対に駄目なんです。そんな世界を概念の人間が作ってきました。その中で感覚の人間が生きるにな何をしないといけないのでしょうね。

 それが微笑みうつ、過剰適応、承認欲求、八方美人とか全ての人に好かれたい人間になってその社会で生活しないといけないのです。これは地獄の世界です。理解されない孤独の世界です。考え、感じ方が違うので疎外されやすい。概念で評価を受けるので精神病扱い、いろいろなカテゴリーに入れられます。例えば微笑みうつ、過剰適応、承認欲求、八方美人、ASD(Autism spectrum disorder),ADHD(Autism spectrum disorders )、HSP(Henoch-Schonlein purpura )とか鬱病とか病人扱いされ薬を与えられます。

 その様な評価を受けるのが概念で出来た世界だからです。いつも正規分布の図があるのです。平均値があって平均値からずれている人は異常者のレッテルが張られます。その様な評価をするのですね。いかがですか?私は今内的な自己診断をしながら見つめてきてそれが分かりました。どうして自分の人生はこんなに生き辛く、苦悩に満ちていて、苦痛を感じながら生きてきたのか?今でも仕事に行くにも決意していかねばなりません。同じです。

 

 

 

 

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