内的自己分析 言葉の起源と堕落性

 言葉の起源を論ずる時にチンパンジーにその起源を求めようとしています。養老猛司氏は動物は言葉を話さないと仰っていて、これはほぼ確実だろうといわれてます。

 私自身の理論がありますのでそれについて書いてみようかと思います。人間と動物の違いが明らかにある、人間だけに同じにする力があるという意見に賛成です。何時から人間が誕生したのかは不明でしょう。ただ聖書ではアダムとエバの人類始祖を描いていて、それを私達も信じてますね。人間始祖アダムとエバがいたとか、アダムとエバはどうして生まれてきたのかという疑問があります。でも、私達はそれを問う事はありません。私達も聖書を信じているからです。第一アダム、第二アダム、そして第三アダムという表現をしています。それから復帰歴史を解いているいますね。実は人間が生まれたときは自分が人間だと言う自覚が自覚があったかどうかなんです。比較対照する人はいないでしょう。周りは動物ばかりであり、その動物は自分のように意識を持っていないので自分は人間だといえるでしょうか?普通だったら動物を自分の親だとも考えられませんか?赤ちゃんはその様な環境で育ちますね。そして大きくなってきたらどんな考えを持つのでしょうか?自分が人間だという確信があると思いますか?16歳までエバは自分が人類始祖だと言う確信があるかということなのです。そしてその時に言葉を話していたのかという疑問があるのです。聖書ではあたかも人間が言葉を話していたような表現でしょう。

 これを科学的な面からみると違いが分かるのです。人間と動物の違いは何かというと動物は同じにすることが出来ないです。それは何処から来ているかというと「同じにすることが出来ないので動物は言葉が喋れません。」と養老氏は仰っています。私もそのように考えていて、意識は動物にはないと私は考えるのです。でも、殆どの科学者は生き物にも意識はあるということを言います。しかし、最近になって意識は幻想であるというのです。だから動物に意識があったら動物も幻想の世界を持っている事になります。そんなことないでしょう。だから意識は人間だけなんです。そして意識がある目的は霊的成長の為なんですね。(これは私の考えです。)現実はその自分の意識を受け入れられないので成長できないのが現状なんです。

 以前から私は一人一人の意識というのは一人一人の本然の位置と状態を示していて、それを受け入れられないので成長できないと考えてます。今の人間は何を中心として生きるかというと概念で生きなければならない姿になっているのです。意識を自分自身だとおもって環境からいろいろな影響を受けるでしょう。それを私の意識になって現れます。現れた意識で生活しているのですね。人の行為を評価して被害者になるでしょう。そしたら被害者で生活しないといけません。だから加害者がいて加害者から守ることが出来る法律を作って安全な社会を作るのです。その様な世界になっていますね。ここから抜け出ることが出来ないのが今の人間の限界なんです。

 人間は言葉の概念の意味だけで生きてます。感覚の中で概念に意味付けされた狭い意味で人間の感覚を形成しています。それは丁度整数(概念の意味)と無限大の数字(環境から受ける感覚の海)の関係のようなんですね。古典コンピューターは0と1でしょう。しかし、量子コンピューターは0と1の間を取るのです。概念というのは0と1に収束しているようなものです。概念を使うと感覚の中では0と1に収束して使ってます。文学者のような言葉の表現を少し感覚的に広い方は0と1という明確な数字ではなくて少し幅が出来るのですが、感覚の無限大の海には届きません。

 意味付けという見えない形になっているのでそこに概念は収束します。だから古典コンユーターのようなものです。そうして心の中では知識、記憶、概念が主流となって外的には関係を持ちながら概念で結びあうのです。だから何らかの関係があって一人の人間のイメージがもてません。言葉と内的は収束した言葉の意味の関係があってその関係で成り立ってます。だから私達の心は同じにしながら外的な環境で生きるしかありません。まとめて人々を見るでしょう。一人一人の関係がないので言葉で何を言ってもありです。一対一の関係を無視しているので、ある人との関係が悪くなったらその関係を切って他の人との関係を持てばよいでしょう。別に問題がないのです。演説していても一人の人が反対しても100人の人が賛成すれば別に問題ないです。多数決で決められる世界ですね。さらに平均値をとって人を評価するのです。正規分布を図にして人を評価してますね。簡単に評価しているのです。そんな社会なんですよ。

 一対一の関係においては正規分布がありません。善悪の評価もありません。いろいろな評価もないんです。そんな評価していたら成立しないからなのです。現代の社会は概念によって感覚が抑圧されています。それから堕落性は何処から来るかというと感覚が麻痺し概念で生きる人間に現れるのです。「私の世界」を失った人間に現れています。それは日常の生活では自分の意識を拒否しているところから始まっているのです。

 私の説明には神という概念がありませんね。原理講論と違います。少しだけ原理講論の表現で背何時瞑してみましょう。では神の概念は何処からうまれましたか?それは人間が持っている第二の神である良心から来ているのです。人間の堕落によって良心が麻痺した状態になってしまったと考えられます。取って食べてはいけないという表現は良心の働きなのです。その良心の働きを無視して霊的堕落しましたね。だから良心を蘇生しなければなりません。

 そこで人間の良心が蘇生する過程で神観も変化しているんです。それは人間が条件を立ててきたので神観が変っていているでしょう。でも、これは象徴的なので概念で留まっています。感覚に戻りませんね。感覚に戻っていく過程が何かというとそれがカナンの福地に定着することなのです。その定着は人間の意識を一人一人が受け止めて認めて、自分の位置と状態が自分の意識だということを認める事で初めて自己の成長が出発します。この手前で終わっているんですね。

 

 

 

にほんブログ村 海外生活ブログ ロサンゼルス情報へ
にほんブログ村