内的自己分析 人間一人ひとりの存在

 人間一人ひとりが別々存在と言うのはほぼ確実のように思います。何故かと言うと一人ひとりが違う存在であると物事を考えた方がスムーズに行くからですね。しかし、ほとんど全員がそのように思えないですね。それが普通でありこのような考えは明らかに反論をかうような考えです。でも考えだけは書いても良いですね。

 どうしてみんな同じだと思うのか。一人ひとりの存在が違うなんて言ったら完全に孤独な存在になってしまうかも知れないからでしょう。誰かがいないと自分の存在が明確にならないからなんですね。そこにはいつも人の集合の中の私と言う存在を感じなければ、寂しくて孤独でいられなくなってしまうんです。人間関係で成り立っているからなのです。だから一人一人が別々ななんて言う人は頭がおかしいんじゃないかと思われるに違いありません。

 どうして何か関係で成り立っていて、一人では存在はしていないという感覚、同じ世界ですんでいる私がいるということを確信していますね。確かに私達は存在して人との関係を結びながら生活しているのは事実なんですね。その原因があります。私はそれを突き止めました。その原因は一人ひとりの概念と感覚に由来しているんです。ほとんどの人が概念によって生きています。

 何度も書きますが、概念と言うのはまず形を定めてそこに何らかの意味付けをしています。例えば「私」と言う漢字があります。この漢字を勉強した人は理解できますね。しかしアメリカ人がこの文字を見てもわかりません。だからこの漢字を勉強し、どういう意味があるのかと言うことを勉強した人だけがわかります。ここに形と形に付与された意味がここにあるんです。概念の人は外的な形で生きるのでこの形を共有しながら生きてますね。言語として毎日使っているじゃないですか。日常の生活の中で言語として使っているでしょう。お互いに理解するために、意見を交換したりするのに使っています。これがすなわち同じって同じにしている根本的原因なんです。使ってる概念が同じなので、その意味合いと言うものも同じになってしまうゆえに次のことがわからなくなってしまっています。概念は先に形があって、それから形に対する意味が付けられるんですね。形を共有し合うとどうしても同じになってしまいます。

 では感覚はいかがでしょうか?人間一人ひとりの感覚というのは何かと言うと、人間の一人ひとりの皮膚にを中心として考えると、皮膚の内側で起きているものなんです。だから一人ひとりの感覚と言うのは同じではありません。別々であります。人間の皮膚で閉鎖された世界がそこにあります。感覚が強ければ強いほど個人の世界に入っていきます。私と言う世界に入っているんです。いつも自分自身の感覚をメタ認知するので、いつも自分自身を見つめながら、生きる生活にならざるを得ないわけです。

 そのような感覚の生活をするとある学習障害が現れてきます。その学習障害と言うものが何かって言うと、概念の世界で生きるための学習がなかなかできづらくなっていきます。普通の人が行っていることが簡単にはできないんです。私のようなものはそれでかなり苦しんできたようです。文字を読むのに意味を感じながら読むことが出来ないことでした。一つの文字を読んでました。だから良く間違えるのです。

 今になって過去の60数年を振り返ってみると、一貫してそれがあったようですね。常に何か分離された感覚というのがあって、そのなかの価値観の中で生きるためには、何をしないといけないかと言うと、実はその世界の中に入り込んで過剰適用しながら、みんなに認められるために承認欲求を強く持ちつつ高い自己設定をしながら生きていかなければならない立場に立ってしまうんです。

 だから、人間関係においても一対一の関係にならざるを得ないんです。一人一人と接するとどうなるかと言うと、簡単に騙したり簡単に偽ったり簡単に弱みを見せたりする事はできないんです。一人一人と永遠の良い関係を結ぶことが願いになるのです。一人一人にその様なことをするので沢山の人がいたら大変でしょう。まったく関係のない人がいるとそれは関係がないので良いのですが、一本道で人と交差するのも困っています。挨拶すべきかしなくて良いのかとか、しないと嫌われると思うとしないといけないなと思ってしまって、迷っている自分がいます。

 だからどのような生き方となるかと言うと微笑みです。微笑みながら生きるんです。笑顔絶やさないでみんなに心配させないで、みんなに受け入れられるように、怒らないで、自分の感情を表さないでそしてみんなと一緒に過ごすように努力します。最高の自己設定をして生きるのです。

 しかしそれが非常に困難になってしまうんです。実際無理なんですね。その結果鬱になりがちになるんですが、私は病気になる事はありませんでした。極限になったとしても、私は病気になることもなく、神経科に通うこともなく薬を飲むこともなく、自分でしっかりと見つめながら、自分自身をまた励ましながらここまでやってきたのです。

 だから私には敵がいません。敵と言う存在を持つことは私にとっては失敗した人生になってしまうんです。恩讐と言うものを作ったら、自分の人生は失敗した人生になってしまうんです。これが実は感覚を持った人の人生観になるんです。その戦いを私はずっとやってきました。これは誰にも表すことはなく、人々に心配させることなく、普通に今日まで歩んできたのです。

 この年になって内的自己分析をするようになってから、自分と言うものはどういう歩みをしてきて、どんな困難の道を歩んできて苦悩の人生を送りながら歩んできた。その原因が今はっきりしたんです。仕方がない人生だったんです。概念で作られたこのような世界で生きるのは根本的に無理なんです。適当に利用され適当に騙され。そして適当に捨てられるそんな立場なんです。地位名誉なんてないし社会的そういう名札もないし、何もない立場で捨てられていく人間がすなわち感覚の人間なんですね。

 だから現代においてはどんなカテゴリーに収められてしまうかと言うと病人扱いされてしまうんです。この評価基準は何かと言うと、そこに平均値があり、平均値からずれている人間と言う評価基準を評価をされてしまっていると言うことなんです。これが概念の世界の特徴です。

 アボジが私にマッチング会場で語られた言動はまさにそこにあるように感じてやみません。何故かと言うと、これが根本的な人間の問題だからです。それを解くための人間になるために、自分はそのような人生を送ってきたのだと思います。有名になってはいけないんです。肩書きを持っちゃいけないんです。教育者になってもいけないんです。さらに指導者になってもいけません。なりたくてもなれない人間なのです。

 私だけの世界があります。一人一人が私だけの世界を持っていると私は感じます。二つの世界がそれを示しています。私達の世界と私だけの世界があるのです。私はそれを感じながら生活しています。

 ここに私自身が創造主の似姿になる、私の宇宙を創造できる、私の神様といえることのできる、唯一無二の存在として立つことが出来るその様なシステムは「私達の世界」と共に「私の世界」がなければならないのです。これが現代の科学の最先端で多世界解釈のポイントとなると私は考えています。

 

 

 

にほんブログ村 海外生活ブログ ロサンゼルス情報へ
にほんブログ村