内的自己分析 何処までが私なのか?

 何処までが「私」なのか?という記事からです。「私の場合は自分の意識と「私」が分離してます。私の意識をメタ認知できるからです。私の意識を分析できるからなのです。だから分離しています。そしてそれを自分の作った理想があります。自分が作った理想も「私」ではないですね。肉身をもっている時に自分の脳に構築したものなので「私」ではないと感じてます。その理想が自分の意識評価をするのです。この働きが良心作用のように感じます。この時点で「私」は一体何処にいるんでしょうね。この良心に従うか従わないかの選択肢はあります。その選択を「私」がするのです。イエス様の言葉で裁いてはいけない、裁いたその裁きで自分が裁かれるというのは裁いたその裁きの基準は自分が作ったものですね。自分が人生をかけて構築してきたものでしょう。その基準で裁いているのです。これは何かというと自分の肉身が勝手に人を裁いているということなのです。だから「私」はどうする事もできません。難しいからみんな悩んでいるのでしょう。どうしても人を裁いてしまうから自己嫌悪に陥っているのですね。人を裁いているのは自覚できているんです。しかし、どうすればよいか分からないのです。裁いているという事実だけは分かるのですが、そこから前に進むことが出来ないですね。それはどうしてかというと裁いている自分が自分自身の肉身だということを知らないからです。自分自身の脳が勝手に裁いているということに気が付かないからなのです。それを認める事で何が起きるかというとそこから「私」が自由にできる世界に入っていくことが出来るのです。」という記事を以前に書きました。

 こんなことを考えた事ありませんか。日常の生活で私が存在して生きているという当たり前の生活をしていますね。創造原理に肉身と霊人体の二重構造を勉強しましたが、この構図で何処に私がいるんでしょうか?考えた事ありますか?肉身の中に私がいるのでしょうか?霊人体が私でしょうか?今言える事は肉身は私ではないと言うことが分かります。肉身は土に返っていくからでしょう。だから私ではない事は理解できますね。これを基本として考えてみましょう。

 皆さんは私と自分の肉身が分離しているのを感じますか?違う世界で存在している事が分かりますか?私は人間一人に二つの世界があることを説明してきました。それが「私達の世界」と「私の世界」なんです。み言葉を勉強したら何処に記憶されると思いますか?これは霊人体ではなくて肉身の脳に記憶されます。霊人体の成長には必ず肉身が意識化しないと学習できません。私達の学習は私達の脳の学習です。記憶は脳に記憶しているのですね。特に概念は言葉の概念として記憶されていくのです。だから勉強すればするほど記憶が多くなり物知りになりますね。それで偉くなった気分になりませんか?誰よりも物知りになっているということで優越感を感じてませんか。大体はそのレベルで終わってます。

 み言葉の学習もそのようになっていませんか?一生懸命に覚えますね。覚えて講義できるようにしようといいます。中にはとっても上手に講義する人もいます。本当に素晴らしいと思います。そして聞くほうも学習して記憶するでしょう。覚えて自分も同じように素晴らしい講義が出来るようにしたいと思います。分かりやすく理解できるような講義をしたい、感動を与えるような講義をしたいと思います。これは知識として蓄えられています。いろいろなお話に感動しますが知識として蓄えられます。沢山感動して成長したように思うでしょう。実はそれで成長していたらもっと多くの人が成長してます。ところが成長していない現状があります。

 日常の生活で自分の意識は自分でない事を感じる必要があるのです。なぜかというと自分の無意識が意識を作っています。自分の無意識とは何でしょうか?自分の外的は環境を通じて計算されたものです。脳が計算しているのを無意識というのですね。だからそこから意識が表れるという事は自分の肉身が意識を作っているのです。私が作ってはいません。それを私達は日常の生活の中で私の意識だと思っているでしょう。これが実は堕落性を脱ぐことが出来ない原因になっているのです。自己否定というのは何でしょうか?自分の意識を否定することなんです。自分の意識自体が私とおもっていたのを私が私を否定するなんて無理なので、自己否定というのは自分が自分の意識を否定することなので私と自分の意識が別々になるのです。

 日常の自分の意識は自分ではなくて自分が作ってきた脳が環境の中で作り出している意識だということを認めるのですね。そうすると自分の意識が何になるかというと私の本然の位置と状態になることが感じられ始めるのです。自分自身の意識が私の現状を示しているという事なのです。これはかなり難しいことです。仏教は法鏡とも言われてます。法鏡とは何でしょうか?「法鏡とは「ありのままの私の姿を映す鏡」ということです。」「仏教の目的は、宇宙の果てのことが分かるようになることでも、良好な人間関係の作り方が分かるようになることでもなく(もちろん、仏教には宇宙のことや人に親切すべきことも教えられていますが)、あくまで「本当の自分」を知ることです。ですから、仏教を聞いていくと「本当の自分」が知らされてくるのです。自己を知らせる教え、ということで仏教のことを自覚教とも言われます。ただ、「本当の自分」といっても、仏教は“心”を重んじる教えであるので、仏教で知らされる「本当の自分」とは「心の姿、心の奥底」のことです。それは自分の意識とは比較にならないほど深いものをいわれます。自分探しの旅に出れば自分と向き合う機会が多くなり、今まで知らなかった自己の一面がわかることもあります。しかし「本当の自分」「自分の心の奥底」というのは、もうわかるものではありません。仏教には『真実の自己』が詳しく教えられているのです。その私の「本当の姿」がよりわかるようにと、釈迦は私達人間を「旅人」にたとえられています。」と説明されているほどなのです。

 自己否定はここにいたる為なんですね。そしてその自分の意識を見つめる私を感じる必要があるのです。私は私の意識を見つめる私自身を感じてます。それを日常の生活の中で感じるんです。瞑想、お祈りでは感じることが出来ませんね。必ず日常の生活の環境が必要になるからです。環境に自分の内面の属性となって現れるからなのです。それをハン違いしてはいけないですね。

 

 

 

 

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