内的自己分析 評価はいらない

 最近感じることなのですが、評価が本当に必要なのかと考えてしまいます。一体何の為の評価なのかということを考えてしまうのです。この評価ゆえに多くの人々が苦しんでいるのではありませんか。

 評価することでどれだけの人が苦しんでいるのでしょうか?良い悪い、善悪、正しい間違いとか、綺麗汚い、いいにおい臭い、美しい醜い、背が高い背が低い、富んだ人貧しい人とか色々と書けば切がありませんね。この評価は一体何処からやってくるのでしょうね。これらの評価基準というのは一体何処にあるかというと一人一人の記憶の中にあります。一人一人が人生で築いてきた評価基準なんですね。理想がありますね。その理想を何に使っていますか。

 評価という言葉は何かというと個人の個性を殺している言葉と言ってよいでしょう。この評価を使うことで個人の感覚を抑圧します。個人の感覚というのは一人一人違って、同じはないのです。同じはないはずなのにどうして同じになってしまうのでしょうね。不思議なところでしょう。実はこの原因が概念にあるのです。

 言葉を構成しているのは記号です。日本語の記号であるひらがな、カタカナ、漢字があります。英語ならばアルファベットがありますね。これらはただの記号なんです。この記号を使って並べ替えて何をしているのでしょう。養老先生が説明されるものがあります。英語のD,G,Oを使って並べます。DOGはいかがですか?これは動物の犬ですね。ではこれはいかがですかGODはいかがですか?神様?神様でしょう。DとGを入れ替えるだけで意味が大変違ってしまいます。これは一体なんでしょうか?何処が違うんですか?DをGが入れ替わっただけですね。記号でいれば入れ替わっただけなんです。ただそれだけでしょう。これを動物が見るとただ入れ替わっただけだという風に見るそうです。

 事実はただ入れ替わっただけなのに、犬と神様という意味付けになってます。そして大変な違いになっているでしょう。これはおかしいと思いませんか?私達は日常で何気なく使っていますが、変だと思いませんか?これが単語、概念の力なのですね。私達はこれを平気で使っているのです。評価というのは何でしょうね。何で評価しますか?言葉の概念で評価しているでしょう。他に評価の方法がありますか?

 記号が並んでそれが単語になって、単語と記号を使って文章を作ります。それを文脈というでしょう。その分が意味があるのです。その意味というのは同じ言語を学び勉強することで理解できるのです。勉強したら理解できるのです。日本人が英語を理解しようとすれば英語の単語の意味を勉強しないといけないでしょう。そして単語の使い方を勉強したら大体理解できるようになりますね。

 ここに言葉の持っている意味と言葉の記号との関係があって、この記号は共有できます。勉強すれば共有できるようになるので記号を使ってお互いの内なる感覚を共有しあうことが出来るのです。ところが内なる感覚が形成されているのは何で形成されているかというと概念によって形成されているのでどんな現象が起きるかというと、みんな同じなんだという意味になってしまうのです。そして何が失われているかというと一人一人の感覚が概念によって作られた特定の狭い明確化できる感覚によって抑圧されてしまっているのです。

 実はそれで人間を評価しています。この意味がお分かりでしょうか?

 じゃあ、評価は悪いのか?概念が悪いのかというお話になってきますが、そうではないんですね。感覚が抑圧されている事が問題なんです。概念によって感覚が抑圧されている事を書いているのです。本来は感覚が先ではありませんか?一人一人の違う感覚があって、それを少しでもシェアーできるようにするのが概念ですね。だから全部を概念で伝える事は難しいのですが、お互いに概念を使って共有しあえます。この部分が課題になっていると私は感じるのですね。今の状態は感覚が抑圧されています。だから概念で評価してそれがいろいろな影響と作ってます。

 本来はこれらの評価基準というのは人間の皮膚の外側に使うのではなく、私達の世界で使うのではなく、自分の昼の内側、私の世界で使うべきなんです。そうすると評価の基準がどのように変化するかと言いますと自分が理想をなしているか否かの評価になるのです。本来はそれが理想ではありませんか?

 評価という私達が使っているものはあてになりません。様々な問題を引き起こす原因になっています。

 ではどうしたらよいのでしょうね。そこは自分の日常の自分の意識を自分の内面でメタ認知する能力がないと難しいです。自分の意識を見つめる力がないと難しいですね。日常の自分の意識を見つめるのはいくらみ言葉を読んでも駄目です。いくら祈っても駄目です。日常の生活で私の責任を実践しないと出来ないです。一人一人の意識は自分の表れである言を認めなければ難しいのです。

 何回も書きますが、被害者意識はNGです。心情蹂躙されたというのもNGです。私の責任にすべきなんです。これが日常の生活で出来るのであれば可能ですね。皆が感覚に戻って感覚の喜びを感じればよいだけなんです。素直に喜べる世界がそこにあります。概念による評価に対する喜びは限界がありますね。

 

 

 

 

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