内的自己分析 ディスレクシア

 学習障害について以前から気になっていました。私が学校に通い始めてから覚えているのが先生から本を読ませられて、うまく読めないことでした。他のクラスの生徒の殆どはうまく、上手に本を読むんですね。みんな間違えないように読んでいるんです。難読症、識字障害、読字障害とも呼ばれているようです。国語の時間が大嫌いでした。どうしてかというと読ませられるからです。読ませられる科目は大嫌いです。文字を使っている教科書はどうも苦手のようでした。だから国語、古典、歴史、社会とかありましたね。これは全て読んで理解して記憶するものですね。だから駄目でした。

 一行あたり50字ぐらいあります。それお読むのに4-5回間違えます。必ず間違えるのです。だから一段落を読み終えるのにとっても時間がかかるんですね。何て自分はこんなにへたくそなんだろうと思っていました。今から考えると読み方が誓います。「何て自分はこんなに」という文字があります。これを殆どは「何て自分はこんなに」を見るだけでその意味が分かります。しかし、私はこれが見えませんでした。どういう風に見えるかと言いますと「何・て・自・分・は・こ・ん・な・に」と別々の文字に見えます。そして一つ一つの文字を発音するんです。これを遂次読みという読み方をしています。文字と音の結びつきが弱いからです。そんな読み方をすると単語の意味が分かりません。そして何が書いてあるのか理解も出来ませんね。だから読み終わった後、ああやっと読み終わったという安堵感だけで何が書いてあったかさっぱり分からないのです。

 「何て」「自分は」「こんなに」という意味を感じ取るのに時間がかかるんです。そしてその結びつきを理解するにも時間がかかります。音読処理と視覚辞書が弱いようです。文字列を見ても一つの単語として認識することが出来ないのです。今でも文献を読もうとしますが、まったく頭に入りません。読む気分になれません。読むと頭が痛くなります。私が書いたこの記事も大体は書きっぱなしです。だから誤字脱字が多くて自分でも理解しているのですが、読み返すのが嫌なんです。難しいのです。人々が簡単に文章を読めるのに私はそのスタートラインに立つのに大変な努力をしないといけないんですね。

 これを一般的には現代ではディスレクシアという異常者のカテゴリーに入れられています。小学校から中学校、高校に至るまでクラスに私のような生徒は2-3人いましたね。私はその一人で、何時も悩んでました。どうしてみんなと同じ読み方が出来ないんだろうと悩んでました。中には上手に読む生徒もいました。とっても憧れていました。同時はディスレクシアという言葉もなかったのです。一人で悩むしかありませんでした。

 やはりみんなと違うんです。何かにつけて違いますね。その自分が社会に入っていかないと生活できないし、親から自立して生活しないといけないわけです。自身がもてない自分がいました。だから平凡で暮らせればよいかなと思っていました。大学生の頃は悩みの渦の中で生活していたのです。

 結局は社会に出る事はなくて教会生活になりました。更なる苦悩が押し寄せてきましたね。

 

 

 

 

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