内的自己分析 二人の私 ②

 カテゴリー化する人々という記事を書いていましたが、二人の私について続きを書きます。 これは「内なる私」私の生き難さの原因を書いていて、その宿命はどうしても変えられない立場なので何をするかを模索しています。

 内的自己分析で「どうしようもない私」で書いた内容がありますが、色々と次に当てはまることが多くあります。基本的に実はこれらのカテゴリーに当てはめるのは最近になって逃げ道を作るような感覚になってしまいます。これらは概念で創られたものなのでカテゴリー化して何処かにぶち込むようなものです。例えば精神異常者、学習障害者、宇宙人から来た人間とかそれらのカテゴリーにはめ込みます。これは「私達の世界」の特徴なんですね。「私の世界」では必要ないんです。これが私なんです。

 でも、記事にしますのでこのような表現になってしまいますのでご了承ください。基本的には概念の特徴だと考えています。なるべくならこのようなカテゴリー化には当てはめないほうが良いと思います。昔、私の親しい姉妹が精神異常者扱いにされてしまいました。私はそうではないと思い続けました。その姉妹の一人の人間を見つめていたからです。他に全員は精神異常者のカテゴリーに姉妹を閉じ込めていましたね。ご主人もそうでした。親しい間からがなったので複雑な心をもっていました。とっても辛かったです。その家庭はコネチカットに移住しました。

 感覚人間はとにかく生き難い世界なんですね。生き難い人々が世界には少数います。私の兄は7つ上なんですが、結婚できなくて半世紀閉じこもり生活をしてきました。今施設に入っています。そんなに苦しんでいたのです。だから私自身は同じかどうか分かりませんが、同様に苦しまなければならない人生でしたね。

 この社会は概念で作られた世界です。皆さんはそれを感じませんか?養老猛司先生がそれを言及されています。感覚と概念、そして人間の意識について詳しく述べられています。この内容はみ言葉をより生活化するために理解しないと分からないのです。み言葉を生活化するには一人一人の感覚と一人一人の意識に向き合うことが必要です。それを向き合わないで概念と自分の意識を拒否して生きているのです。それが堕落性本性の正体なんです。

 こんなこと書いたら嵐が起こってしまいますが、神、サタン、天使長、悪、善とか全て人間が作った概念です。人間が環境の中で感じたその感覚を形にしてお互いに同じ形で結んだ概念なんです。記号にすれば同じに出来、共有できるのです。これが言語の始めでしょう。そういう風にして言語の同じにしている機能に翻弄されて頭だけで考える人間になりました。その概念は人間の違うという感覚を抑圧するのです。だから私の感覚は社会に抑圧されながら生きるしかなかったのですね。これが私の苦悩の原因だったのです。私の感覚には神、サタン、天使長、悪、善とか全て人間が作った概念存在しません。存在しているのは自分が成長しているかしていないかのバロメーターです。

 もう合わせるのは段々とやめています。無視する事を勉強しています。心が痛いんですが、一人一人一対一で接したいんですが、無視する努力もしないといけません。人々の動きを観察していると互いに無視しても良い関係を持っている姿を見ていると、自分もそれを学習しないといけないなと思っています。無視するとなんて思われるのだろうとか嫌われるのではないかとか色々と感じてしまいますが、それは自分が勝手に思っている事であって実際はわかりません。嫌われても良いからしないといけないと私は思います。自分は嫌ってないからそれでよいかなという決心です。

 私は有名人になりたいと思っていましたが、人々を同じ事が出来なくて同じスタートラインさえ立てない自分を見つめて結局は平凡な人間でよいと思うようになりました。別に地位も要らないし、有名人なんてなれないし、有名人になることで苦悩があるし、多くの人から見つめられて多くの人に寄られて、一人になることが出来ない、私の世界を大切にしたくても出来なくなる、一人の人間として付き合える人がいないくなるとんな負の力があって辛い人々なんだなと考えてしまいます。だから私は平凡な人間でいて最高の事を成せればよいかなと考えています。いろいろな名誉とか知名度とか価値観とか、評価の渦の中ではなかなか難しいですね。それらを排除して自分を見つめられないといけないで、組織の指導者、教育者、地位に立つ事はできないのですね。無理なんです。その位置に立たない一番下で平凡にすることが一番良いのです。そうしないと自分の感覚が抑圧されます。

 私の家族には迷惑かけているかもしれません。父親がもっと指導者であれば良いとか組織の有名人だったら良いとか、知られた存在だたら良いとか、そのように思うこともあるでしょうね。それよりかは全然活動もしないし、訓読もしないし、何もしない不信仰者をもって困っている人もいます。他の人から何をわれるのか、「お宅の旦那大変ね、大丈夫?もっと教会の活動したらよいのにね。大変ね。」なんていうことも言われるでしょうね。それは十分予測されます。これを理解してもう一段の評価できるものであれば良いのですが、それは難しいかな。仕方がありません。

 でも、私は私が感じている使命を成さないといけないので何を言われようが、批判を受けようが進めて歩みたいと思います。これは誰一人として理解できないことなので仕方がない事です。吉となるか凶となるかは私を含めて誰一人として分かりません。私の人生もどれくらいか分かりません。リタイヤしましたし、残りをこれにかけます。私は真剣です。アボジが1982年の10月。私にマッチングの時に示してくださったあの言動を胸に刻んでいきます。

 

 

 

 

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