宗教と科学の統一と言うけど今の科学の先端を求める人はいますか?自分が求める人がいますか?自分自身がそれを捜し求めないで科学者を伝道すればよいと思ってますね。

 私は思うのですが、今の科学が求めてる問題を本当に解ける人は少ないですよ。大体が科学者は自分の名誉のほうが大きくて教授だとか名誉教授だとかそんな人ばかりでしょう。多くの文献も最近では読めるようになっているそうです。そして最近のアメリカのツーソンで開かれた意識研究の会議がありました。それからAIの嵐です。CHAT-GPT4oが出ました。どうするんですか?それに飲み込まれてませんか?原理講論の講義、説教はAIのほうが優れた話をするようになりますね。人間様よりも優れたお話をします。それでどうするのですか?そんなこと関係ないと思っていますか?

 私はある方に挑戦しています。先日ツーソンの意識の会議に参加されました。その会議に参加されて語る人はいまだ本質に迫っていないと言い切るほどの方なんです。ドイツでは書かれた本が14週ベストセラーになっています。その方は意識を死ぬまでに解明するんだと硬く決意していらっしゃいます。科学と宗教のと統一はこの人間の意識にかかっていると私は思います。私達の一人一人の意識にかかっているのです。意識解明にかかっているといっても過言では無いでしょう。

 誰一人として挑戦しないでしょう。私が挑戦しています。成せなければ私の力不足なのでそれはそれで私は受け止めます。しかし、自分にも使命があると思います。こんな私の性格ですが、苦悩の一生を通過して生きてきたその目的は、苦悩の中で自分の意識を見つめながら体験して来た様々な体験を脳に記憶しています。自分の脳に記憶したそのものがそれを明らかにしてくれれはと願っているのですね。

 内的自己分析は誰よりも出来ると思っています。そんな人生を送ってきたのでやってみたいですね。私は本を読めないのでいろいろな文献も読めません。文字が並んでいるだけで理解する気持ちになれなくて、非常にめんどくさくなります。そんな理解するのに時間をかける必要もないし、人を考えを取り入れる事はしないです。自分の生活の中で感じる自分の感覚をもとに内的自己分析をします。書かれた文献は概念に過ぎません。書かれた本も概念に過ぎません。真理といわれるみ言葉は同じく概念に過ぎないのです。こんなこと書いたら何か言われそうですが、み言葉の実体になった人がいますか?ほぼ全員が概念の遊びをしながら頭で考えてませんか?それで分かったつもりになっていませんか?

 私はそれが納得できないのです。だから自分が日常の生活の中で感じる自分の感覚とそれから少しのみ言葉と自分の意識を分析しながら私はブログとフェイスブックに書きとめています。こうして書きとめる事は次のステップを踏む為なんですね。固めないと次に進めません。私が書いている内容はしばらくすると通り過ぎていきます。なぜかというと閃きは環境を通じてやってくるからです。頭の中で考えてやってくるものではないのですね。

 それから宗教と科学の統一と言いますが、今はキリスト教の統一でしょう。それから願わくば宗教の統一ですね。これらは概念で可能かもしれません。理論で可能かも知れません。そして南北統一と言います。でも、人間の内面で統一されていないのにどうして統一できるのですか?外的な行事で統一するんですか?祈りの力で統一するんですか?一時的には可能かもしれませんが、薬みたいなもので自力で病気は治さないといけないでしょう。何時までも薬を飲むんですか?自力で治さないといけないというのは、自分の責任が残っているという意味なんです。一人一人が自分の責任を果たさないと誰もしてくれないでしょう。私はそれを心配します。私自身は私がします。

 統一しても分裂した理由を知ってますか?その原因が堕落性と言いますが、それが概念にあるのです。言葉の概念は評価します。関係で評価します。評価というのは人が沢山あつまっていて平均値があってそれを基準に評価することですね。正規分布図で評価するのです。それが分裂の原因となっているのです。人間の感覚の中にはそれがありません。人間の外部に対する善悪の評価基準は自己実現に変わってしまうからです。その基準が完全に変わります。

 困ったものです。自分が勝手に悩んでます。