内的自己分析 人間は別々の世界に生きている。#2

 私達人間は簡単に評価します。これはそういう意味でしょうか。実は「私の世界」には評価がないんです。どうしてかというと比較するものがないからですね。みんな違うのにどうして比較できるのですか?その様なひょか基準がありません。しかし、私達が住む世界には評価基準がありますね。とっても不思議ですね。学校に通うようになったら同じ教科書で学び、そして同じテストをして、テストの点数で優劣を決めます。そこから始まりました。学校に入る前は殆ど評価基準なんてなくて、喜びで生きてました。学校に通うようになってからです。そこから評価が始まりました。中学校になったらさらに評価され、そして進学に影響しますね。高校生になると大学の進学のための評価があります。それは全てテストを行って評価をするのです。点数の結果を両親にも知らせるようになっています。そして点数が悪いと叱られるでしょう。両親からも評価を受けるのです。このように評価される生活をしてきた私達は評価の世界で生きることになるのですね。すなわちこれが「私達の世界」なんです。そんな世界で私は「私の世界」を維持してました。

 自分には学習障害というものがあって、本を読むときに理解するに時間が若干かかります。そして人に話すときもそのまま話すことが出来なくて、一旦自分の中で話してよいものかどうかを分析してから話します。だから若干遅くなります。このように人が簡単に出来ることを自分は出来ないのです。今も同じですね。訓読とかみ言葉の拝読もしますね。普通にします。でも自分は普通に出来ないのです。理解できないでしょう。単語、文章に対していつもそのまま受け入れられなくて疑問詞が付きます。ほとんどの人はそのまま理解してそのまま使います。私はできません。へんな人間ですね。だからみんなと同じスタートラインに立つまでが大変なんです。皆が平気で出来る事を私は何らかの努力をしてやっと出来るのです。それで、教会の中で歩んできました。

 この評価というものは同じの部分がありますね。分かりますか?同じの部分がないと正規分布の図ができません。同じ評価基準があるので作れるのです。それで人を評価するのです。一人一人を評価するのにその様な評価するでしょう。個性と言っても一人一人の個性だと言いますが、人と違ったら個性でしょう。「人と違ったら」という時点でおなじ評価基準が存在しているのです。だから個性なんていえません。個性真理体なんていえないでしょう。

 実はこれらの評価基準の中で概念を中心とした世界で生きるでしょう。その中で生きていながら自分の意識に現れたその意識は何かというと他の人と同じなんです。意識は自分でも気が付かないうちに他の人と同じ世界で生きているという意識になってしまいます。どうしてそんな事を言えるかというと、感覚は個性真理体でしょう。他人と交わる部分がありません。感覚で現れた意識は他の人と違うので一人一人が違う認識になります。私自身がそうです。同じの部分が本来はないのです。私が苦労したのはそんな自分なのに、みんなと合わせてみんなと生活する為には自分のその感覚を抑圧させて等しく同じにして歩まないといけないからです。そうしないと認めてもらえないですね。同じにしないと、同じ生き方をしないと認めてもらえないので自分はかなり苦痛の人生を送ってきました。自分の感覚を抑圧させながらあわせてきたのです。

 社会がそうなっていて、組織がそうなっていて、みんながそうなっているので、感覚人間はそこに合わせます。そこにあわせるとどうなるかというと自分の意識は感覚から来るので違うでしょう。一人一人、一対一で付き合うので、人間関係において利用され、騙されて、良いように扱われてしまうのです。反発しないし、喧嘩もしないし、不平不満も言わないし、いいわけもしないし、言葉数は少ない、扱いやすい人間でしょう。そうして生きなければなりません。私は良いのですが、しばしば病人扱いにされます。病人というカテゴリーに入れられてしまいます。人とちょっと違ったことをすると裁きに荒らしに会います。のけ者にされるでしょう。疎外されますね。

 それはどうしてかというとそこにある評価基準があるからなのです。これが概念で生きている人々の特徴なんです。最近になってCHAT-GPT4oが現れました。皆さん気をつけてくださいね。審判が始まります。概念の人は審判が始まります。何が本当か、何が偽物か、何が真実か、何が嘘か分からなくなって、混沌としてきますので気をつけてくださいね。

 

 

 

 

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