自己分析 (感覚と概念の違い)

 仕事の最中に「私の世界」を考えてました。以前から「私の世界「と「私達の世界」という表現で二つの世界があるという記事を書いていました。それで、一人一人がそんな世界を持っていたら人類80億の人口ですが、80億の多世界があるんですね。それは一つの物理的現象で成り立っている物質世界と幻想で作られた一人一人の世界があって、それが人口の数だけ世界があるという考えです。

 現代の科学では多世界解釈が現れています。これは量子理論から現れているのです。「量子力学の多世界解釈 なぜあなたは無数に存在するのか 」とかも言われていて、自分が違う世界に存在するとかという説もあるようですね。私はそんな仮説はあまり受け入れられません。自分の感覚とあまりにかけ離れているからです。出来るだけ自分の感覚とつながる考えを持ちたいですね。私達の一つの物理的現象の世界と、それから私の個別の私の宇宙といえる世界が存在するという考えなんですね。

 この考えではジェンダーの問題が出てきますが、ここでは書かないでおきます。それも理由を説明できます。ここで考え方を私の世界があるという前提で考えていくと面白い考えた浮上したのです。意識はあくまでも幻想世界であるという前提で書きます。私達の意識に現れる五感は霊的五感であるといっても良いかと思っているほどなんです。だから日常生活で意識で感じている世界というのは現実の物理的現象の世界ではなくて自分自身の幻想の世界だということなのです。私の霊界といってよいでしょう。

 概念と言うのは見えない世界で繋がってしまっている様なものだから一人一人が「私の世界」と言うものを感じれないのです。意識は幻想なんです。現実の世界のものではないですね。意識で概念が作られているでしょう。「私は幸福である」一つの文章があります。現実の事実の世界ではどの様になってるかと言いますと。ただの文字列なんです。一つ一つの文字が並んでるだけですね。人間が作った文字が並んでいるだけなんです。「私「は」「幸」「福」「で」「あ」「る」と言う文字列なんです。そこにはただの記号なんで線で作られた記号ですから何の意味もないんです。ところがこれを人間が見てそして何を感じるんでしょうか?これを読んで何を感じるんでしょうか?この感じた意味合いというものが何なのかと考えた場合に現実のものではないと言うことが理解できますか?

 人間の五感を通じて、特に視覚からこの文字が入ってきただけですね。そして自分がこの意味を感じるでしょう。それが意識となって現れてくるんですが、その意識の前に、無意識というのがあって自分の脳が勝手にこの文字を分析して、そして意味付けして意識に表していると言うのがわかるんです。このように考えると、外からのいろいろな現象を分析してそれをつけしてるのがよくわかりますね。意味つけと言うのはすなわち実体ではなくて、幻想の世界なんです。この幻想として表されたこの意味と言うのは、人間が等しく同じように感じれる意味付けなんです。大体ほぼ同じだと考えて良いでしょう。

 文字というのは線で作られた形なんです。でも、それが意識に現れた時は、何らかの評価がなされて意味付けされているのがわかるでしょう。これがこの文章の内容の意味として、人間は文脈として感じることができます。日本人だったらこのように日本語を勉強して、日本語の意味を学習して、その文脈を読めるように教育されてきましたからこの文字が示している文脈と言うものは、誰が読んでも大体同じなんです。見えない世界で同じになっていると言うことです。幻想の世界で同じとなっているので、「私の世界」におけるその幻想世界が見えなくなってしまっているんです。これがいわゆる概念によって作った人間の世界なんです。だからみんな同じ世界に住んで、同じ言葉を使って同じ理解をしながら関係を結んでいくので、すなわち「私の世界」が見えなくなり、「私達の世界」で生きることになるんです。

 ところが感覚を考えてみてください。言葉と違って感覚と言うのは一人ひとり完全に違うでしょ。そして一人ひとりが感じている感覚を知ることもできません。例えば、自分が人の方をポンと叩いたときに、自分は手で人の肩を叩いたその手の感触はあるでしょう。ところが相手の感覚、すなわち肩を叩かれた相手の感覚は感じ取れましたか?いかがですか?それは完全に無理だということがわかりますね。だから感覚の世界っていうのは違うのです。明らかに違うのです。だから感覚によって「私の世界」を作ることができる世界なんです。感覚で作られたものによって意識として上がってくると当然何が起きるかって言うと、一人一人違って見えるんです。

 私達の生活は言葉を使た幻想の世界で同じにして生活しています。感覚の世界感覚においての幻想世界っていうのは同じにできません。違って見えます。全部が違って見えてしまうんです。これは自分でも自覚できないもので、自分でもわからない苦しみを味わいながら生きなければならない。その姿と言うものは自分でもわからないんです。今になって自己の意識を分析するようになってから、だんだんと明らかになってきました。感覚から来る意識と言うものは全く違います全部が違って感じられるので、概念で生きる人々の中で生きる事は地獄の苦しみを感じざるをえなくなるんです。

 だから私は人を見るときに一人一人を一人の人間としてつきあいます。いい加減な付き合い方はしないです。逃れたり、言い訳したり、騙したり、言葉に背金を持たなかったり、自分の責任にしなかったらよい関係は結ぶ事はできません。だから簡単ではないのです。簡単に人前にたってみんな人間の前で話すなんて出来ないのです。それが出来ると社会で悩まなくて生きることが出来るのです。

 

 

 

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