イエス様はどんな方か

 イエス様はそういう風に考えていくと、明らかに感覚の方でした。

 見失った羊のたとえルカの福音書 15:1 - 7、口語訳聖書 

 そこでイエスは彼らに、この譬をお話しになった、「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。

 100匹の子羊がいて、1匹でもいなくなると、イエス様はどのように感じられるかと言うと、その1匹が全体のようにして感じられるんです。しかし、99匹の子子羊からは不満も現れるでしょう。そんな1匹に力を注がなくてもいいでしょとか。「そんな1匹はほっとけばいいでしょう」とかそういうふうに言うんです。全体で活動してるんだから。そんな1匹のために全体のその目的を果たせなかったらだめじゃないですかと言う意見を持つ人もいるでしょう。そのようにして一対一で関係を結ぶならば一人の悔い改めた人を無視するわけにはいかないですね。もっとも尊い人物を無視するわけにはいかないのです。

 一匹がいなくなっても別に100匹の中の一匹ですし、皆で一緒に目的を果たす為にはその一匹のために時間を割くことも出来ないでしょう。そうしたら全体の目的が果たせないでしょう。普通はそうですね。でもそれをみたイエス様はどう感じるかというとその一匹が全体に見えるのだと思います。そういうふうに考えることそれが感覚なので一匹のの子羊を探し求めざるを得なくなります。見つけなければ心の苦しみが解けないでしょう。それがイエス様の姿でしょ。

 誰一人としてイエス様を理解できなかったのは感覚の人がいなかったです。イエス様ご自身が感覚の方であり、一人ひとりを愛する方であったからなのです。民衆は概念で生きているので関係で生きているので関係で全て片付けてしまいます。立法に反する人たちは悪であり、立法に従う人たちは善であると法律がそういうものなんだから、それに従う生活を行います。それが善なんです。そうして平和が保たれれるのでしょう。守らない人を見たその瞬間に裁き批判するようになっているんです。その人を罪人をして定めるのです。

 イエスはご自身はもともとから一人であられました。感覚と言う確実な私の世界があったので、私たちが言う寂しい孤独な人と言う意味ではないんですね。寂しいと言うのはどういう意味かって言うと、自分の要求したものが返ってこないって言う状態を寂しいと言う感情で感じるようになるんです。だから自分が人に要求していることが原因であり、自分が受け入れてもらいたい。そうすることによって、自分の喜びが実現できるなんだできるんだって言うそういう前提のもとで関係を持とうとするので、1人になると喜びが得られないので寂しい、孤独として感じてしまうんです。イエス様はそのようなお方ではないと感じます。

 ただ周りの民衆が弟子が本当の意味で感じ取ることができなかったので結果的に法で裁かれて十字架の道に行かざるを得なかったのではないですか。キリスト教では既に予定されていたかのように、十字架の進行を持って、自分の罪がその十字架によって許されることを固く信じ、十字架の贖いを求めなければどうしようもない。人間の姿がそこにあるんです。

 それは実は仕方がないことなんです。何故かと言うと、人間の意識と言うものは、自分自身がそのように思って現れているものではなく、勝手に自分の体が作り出している意識だからです。だから自分ではどうすることもできない意識なので、その許しを乞うために十字架信仰と言うものが現れざるをえなくなったのかもしれません。キリスト教徒でその十字架を固く信じてる人々には申し訳ないんですが、私はそういう風に思うので、私の個人の意見として捉えてください。

 そのような中でイエス様の最後の言葉と言うのも言うのも、人々を呪う事はないし人々に対してどうのこうの言う必要もないし、ただ自分自身がどうしてこのように十字架につけられないといけないのかと言う思いに対する最後の言葉ではなかったとかと思います。感覚のイエス様は民衆に対して言葉で表現されているんですが、それが比喩でほとんど語られております。その比喩は、言葉の概念よりもより人間の感覚に訴えかけられるので、イエス様は独自の概念を作られないで、比喩で語った語られたものであると私は感じてます。人に説明するときに感覚を人に説明するときによく比喩でかたります。その理由は比喩がより感覚的に伝えられやすいので比喩を使ってられるんです。それを人々はどれくらい感じ取ってどれぐらい自分の生活の方として生きる人がいたでしょうか?それは難しいですよね。感じ取れる人はいないでしょう。だからそのイエス様の言葉を聞き入れるためにはイエス様のその感覚を相続する人なんです。決してイエス様を裏切る事はないでしょう・感覚の関係は裏切りなんてないんです。一対一であり、永遠の関係を築きたいので裏切れないのです。そんな一時的なもので終わらせようとか、一時的な言葉で終わらせようとか、話す言葉に責任を持たないで言葉なんだから、何でも話していいやみたいなそんな無責任な事は、感覚の人においてはできないんです。だからそのような人々がイエス様の周りにいれば決して裏切る事はなかったでしょう。これは現代にも見えますね。

 真理を語ることが出来なかった理由を原理講論では語っています。神霊の基準が真理を聞くに達していないからだという説明をしているのです。私が考えるに新しい概念をつくるよりもたとえのほうがより人々の感覚にうったえやすかったかも知れないとも考えています。

 沢山の人と付き合って、一対一の関係を無視すると、人は簡単に裏切ります。話した言葉には責任を持ちません。何でも話せばいいんです。言葉と言うものは何でもアリなんです。だから言葉に責任を持つ人はほとんどいないでしょう。それは何故かと言うと概念で生きているに他ならない方です。感覚の人は責任を持つので、言葉にも注意します。自分の話した言葉に対して、自分が話そうと思う言葉に対してほんとに責任を持てるかと言う吟味をして言葉を話すんです。だからそんなに簡単に言葉と言うものは話せなくなります。自分は言葉数が少ないのは瞬時にそれをしながらお話しするので、言葉数が少なくなるのは仕方がありません。

 そして1人一対一の関係なんで自分の親友が分派に行ったからといってどうするんですか?自分の親友が共産主義に行ってしまったからといってどうするんですか?それで批判するんですか?それで裁いていくんですか?間違ったことを言う人に対して裁くんですか?人が間違ったことを言ったからといって人間関係が変わってしまうのですか?私にはそんな評価さえできません。なぜかというと一対一の関係だからです。

 こういう思いを持つ人々は概念の人間だと自覚してください。私の姉は87年に教会を飛び出しました私を導いた例の親です。そして自分で自立したいのでいろんな勉強もしていました。私にある日言った印象的な言葉が何かと言うと「あなたを伝道して失敗したわ!」と言う言葉だったんです。私はその言葉に対して一言も話す。言い返す言葉もありません。ただ聞くだけでした。その言葉に対して言い返す言葉がどこにありますか?ただ受け入れるしかないでしょう。姉との一対一の関係っていうのは言い返してどうのこうのではなく、受け入れないとことが進まないと言うことなんです。受け入れて初めて進展していくので、受け入れる必要があると言うことを私の感覚が既に感じているので、ただ言葉が出ないだけなんです。そういう中で私は姉との関係を築いてきました。今も同じ気持ちです。

 なぜ変わらないかと言うと、私が感覚の人間であり、自分の感覚と言うものはそんなに変わらないものだからです。環境はどんどん変わっていくでしょう。環境に支配される人たちはどんどん変わってしまいます環境によって変わってしまうと言う事は、友人が教会を去ったりすると変わってしまうです。文化に行ってしまうと完全に変わってしまうんです。変わってしまって何が起きてますか?家庭問題として勃発しているじゃないですか。そんなの本当は関係ないのに、善悪の評価基準、正しい間違いの評価基準でそのような概念で取り扱っているので、衝突は免れません。

 悲しいことです。ほんとにイエス様のことを立ててイエス様の心情相続したいと言うならば、何をしないかしないといけないかと言うことがわかるはずです。ほんとにイエス様を慕うのであれば、一人一人が感覚に戻るべきです。それを早く気づくべきです。

 心情の相続というのは何でしょうか?これをまた記事にしたいと思います。

 

 

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