感覚の世界の旅 その124 自己分析 

 人から理解されることをもうやめました。人に理解を求めても無理なんです。人を理解すること自体が無理なんです。不可能なんですね。いくら考えても不可能なのです。長い人生をかけて私自身は認められる事を願って生きていたようです。なぜかというと強い承認欲求を持っていたからです。その承認欲求は自分の感覚からきていました。感覚人間なので一人一人の存在が違っているようなんです。同じなんていう感覚ではないみたいなんですね。一対一で関係を持とうとするとどうなるかというと人を騙すことが出来ません。人を利用することも出来ないです。一時的な関係なんてありえません。永遠に良い関係を結びたいと思います。変わらない関係でいたいと思うのです。

 昔から付き合っていた家庭がありました。親しい関係で私の息子と幼馴染だったんです。分派騒ぎになてから奥さんはあるひ「あの人おかしくなった。精神的に犯しなった。」というのです。どうも困ったものですね。私にはその評価基準がどうも違和感を感じているのです。何を基準にして、何と比較して、平均値から違うから精神病扱いするのかというそんな疑問が私の中で渦になってましたね。挙句の果てに旦那さんまでそんな事を言うようになったんです。どうにもこうにも私はその先入観に囚われてしまって苦労しました。今まで付き合ってきたのになんか組織の中ではおかしな人だとか、精神病になったとか、お医者さんから薬をもらっただとか言うのです。そしてその奥さんを本当に精神病にしようとしているように私は感じてました。とっても苦しいですね。こんな私を誰一人として理解する人はいないでしょう。私はいつも心の中で「違う!」と叫んでました。本人と会話する時は「違う!精神病ではない!」と心で繰り返し言いながらお話してました。

 これは私が感覚人間の証拠だからです。どうしてか分かりますか。概念は人間を平均値からずれると病人扱いします。平均値というのは分かりますか。正規分布図です。「正規分布とは期待値(平均値)と最頻値と中央値が一致する𝑥 軸を漸近線(ぜんきんせん)とする平均値を中心にして左右対称(𝑦 は 𝑥=𝑚 で最大値をとる)曲線の山は標準偏差(分散)が大きくなるほど低くなり、左右に広がる。標準偏差(分散)が小さくなるほど山が高くなり、よりとんがった形になる。」と説明してあり、生活の中で用いられている代表的なものがIQです。知能指数 (Intelligence quotient)と言います。それから大学とか高校に用いられる偏差値があります。この評価基準で人間を量るのですね。中心からどれ位離れなたら病人なのかということです。変だと思いませんか。だから私はその奥さんを普通に一人の人として接しようと努力していました。その発端が分派に行くというところから始まったんです。

 でも私は変らない気持ちで接しているんです。今も変わらないですよ。普通に接することが出来ますね。私には分派だからとかそんな評価の関数はありません。どうしてかというと一対一の関係を持つからです。これが感覚人間が持ちたい人間関係なんです。

 簡単に評価してしまうのでその評価でグループを作ってそれで人間関係を作ります。あの人はあそこにいるから悪い人だと言います。あの人は指導者だから責任者だから良い人だと言います。素晴らしい人だと言います。同じ言葉でも責任者、指導者が話す言葉の重みが違います。同じ言葉なのにどうして重みが違うんですか?私の言葉は軽いです。軽すぎて無視されますね。別にそれでも良いです。気にしないです。私が書いている文章は環境だからです。私はあえて自分の位置を高めて私の言葉を聞け!なんていう事はしません。

 この人間関係を作る姿勢がわかりますか?何で人間関係を持とうかとしていると善悪の基準で、正しい人間違った人の評価基準で、正常な人変な人という評価基準で人間関係を結ぶでしょう。それが何に影響及ぼしているかというと全ての人を受け入れて人を愛することが出来なくしているのです。人を間違ったひと、共産党の両親を持っている人、共産主義の強い学校に通っている人、家系に悪い人がいる人、なんか不真面目な人とかいろいろ評価して愛せなくしているのです。評価した時点であの人が変らないと愛せない、あの人が変らないと導けない、お話できないとか人が変ることばかり考えますね。無条件で人を愛するなんて不可能なんです。

 なんか変だと思いませんか。こんなの考えるのは私しかいないでしょう。感覚の人だったら一対一で人に受け入れられるように自分が変るのです。私はそうして生きていたのでとっても強い承認欲求をもっていました。そして過剰適応をせざるを得なかったのです。基本的に感覚の人は自分の喜びを感じながら生きる人です。みんなで戯れて、話をして、皆で群れて、みんなで踊って楽しむということをしません。みんなでいる時は良いのですがそれでしか喜びを得られない人は一人になると孤独になり、喜びを得られないので寂しくなって、心の寄りどころを求めていかなければならないのです。

 しかし、一人で喜べる人はそんな事しなくて良いでしょう。感覚の人は一対一の関係を永遠に持とうとするので、そしてその人に受け入れられるように自分を変えていくのです。そんな関係を持とうとします。こんな感覚人間が教会に入ったらもう大変でしょう。教会は概念で作られた組織ですね。心情組織と言いますが私はそんなものを一切感じる事はできませんでしたね。概念で作られた組織です。組織自体が概念で作られなければならないので仕方がないのです。一対一の関係を持つ事は組織では無理なんです。そうして苦悩の毎日を送っていました。どうしようもない毎日を送っていました。今になって自己分析をしていて自分の苦悩の原因が段々と明らかになってきました。今も変わらないですね。

 聖進様は感覚の方です。そしてそのご長男も感覚の方です。私はそれを感じました。このような方々と相対基準を結べる人は感覚の人間でなければ難しいです。私はご長男を利用していく人を沢山見てきました。そして裁かれてこられた形跡があるのも感じました。概念で生活する人は簡単に人を裁くからです。それは私は肌身で感じていたので言葉数がかなり減りました。言葉がないのです。そうして一緒にいました、私自身が感覚人間だったので裁くことなく一人の人として一対一で接することが出来たのかなと思っています。

 日本が聖進様を受け入れられなかったので私はご長男を絶対に追い出してはならないと心に誓って歩んでいましたね。日本と私のショップの世界は天地の差がありましたが、小さな世界であっても縮小体なんで同じ日本の失敗をしてはならないと思って歩んでました。何の話か分かりますか?これは国時氏から学びましたが1970年にどうして日本が聖進様を向かえて1973年に東淑様とのご聖婚があったのかその理由はこの方を中心に日本を引き上げる為でした。すなわち概念で生きるのではなくてこの方に相対できる歩みをする人が多くなっていくのを願われていたと思います。しかし、この方を実際は疎外しました。だから国時氏は日本は深い悔い改めをしないといけないといわれましたね。その課題が今勃発しています。

 実はイエス様も感覚の方なんです。孤独の道を歩まれました。誰一人として理解する人はいませんでした。

 

 

 

 

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