感覚の世界の旅 その123 肉身が勝手に作った意識

 私達の日常の意識は自分の肉身が勝手に作った意識なんだということを説明します。肉身が勝手に作った意識であり私が作った意識ではないと言うことを書きたいと思います。ほぼ全ての人々が意識で生活していますね。意識のないときは寝ている時か死んだ時です。自然に意識がなくなって寝ますね。そして目覚めると意識がまた戻ってきます。これは科学の世界では非常に不思議な現象だと見るのです。意識について考えない人はあまり分からないでしょう。自分を見つめない人には理解できないと思います。自分を見つめ深く見つめる人は理解できると思います。

 「私の世界」の入っていくと自分の意識は自分の肉身が勝手に作っている意識だということがわかります。そして私はそれに依存しながら生きているのも分かります。実際生活の中で自分の思い通りになるとおもいますか?思い通りにならないことがあまりに多いでしょう。なるようになるなんて思っているのですか?どうにもならない世界で住んでいるのです。それなのに人間は計画を立てて、予測しながら、予測通りにならないと気が済まないようなんですね。予定外の事が起きると、うまく行かないと、考えもしない事になると怒ります。その意味は何かというと予定通りになることを強く信じて生きているからですね。

 これから抜け出るのは何かというと無限大の多様性で生きる方法は何かというと感覚でいきることなのです。感覚は今、この瞬間が全てだからです。同じがありません。人々という言葉もありません。評価という言葉もありません。比較する意味の言葉がないのです。みんな違うものであると感じることです。こんなこと書くと殆どの人が否定しますね。どうしてかというとこんなことを認めると社会が成り立たないからです。組織が成り立たないからです。社会はそして組織は決まったレールに乗っかって計画通りに進んで目標を達成するということですね。これをよしとして目指しているでしょう。だから都会が出来上がります。変わらない世界になります。そして自分が変らなくても住むそんな世界になるのです。それがまさに都会ですね。住みよい環境を求め、安全なリスクのない環境を求め、環境を変えながら生きる人生になるでしょう。

 イーロンマスクのような火星移住という発想がそこにあるのです。人間が宇宙に出たら人間としての機能が果たせなくなりますよ。そのまま地球の環境を持っていかない限り無理です。宇宙にでたら重力がないでしょう。だから遠心力を使って重力を作るのであんな丸い形になってくるくる回すんです。こんな記事がありました。「待望の宇宙旅行時代は着々と近づきつつある。世界初の宇宙ホテル「Voyager Station(ボイジャー・ステーション)」の建設が2025年に着工されるそうだ。世界初となる商業宇宙ステーション、ボイジャー・ステーションは、車輪型にして回転させることによりその遠心力で月面レベルの人工重力を生み出すという。早ければ2027年にも運用が開始できる可能性があるという。」このように地球の環境そのものを宇宙に持っていかなければ人間は生きることが出来ないのですね。それを地球はうまく出来ていて人間が生きるように作られているのです。

 ところが自然界のような無限な多様性の中ではそれが通用しません。通用しないのにそのまま都会の生活を自然化で維持するように努力するとどうなりますか?自然界の無限の多様性に順応できない自分になるのです。自分を変えないからです。多様性に応じて帰ることが出来ない人間なんです。

 毎日、生活している中で自分の意識がありますが、意識については何も考えないで生活しています。私は自分を自分が自覚してから今日までいつも自分の世界を感じてました。だから何か浮いた感じたしていたのでしょうね。いつも多くの人がいても自分が浮いて感じてしまうのです。いつも客観的に見つめる自分がいます。日常の生活でそれがいつもありました。だからそれが自分の苦悩を作り出していたのでしょう。

 日常の自分の意識は自分じゃないですよ。自分が作ってきた自分の脳が作った幻想の世界なんです。その世界で生きているのです。意識自体が幻想と考えたほうが本質に迫れます。すなわち自分の肉的五感で感じて現れた自分の意識は何かというと霊的五感なんです。科学の世界ではそこまで迫っていますね。意識自体が幻想だと考えたほうがより本質に迫れるというのは茂木健一郎氏の言葉です。

 自分の肉身が勝手に作った日常の意識であるということなんですね。だから現代科学の意識の論争で自由意志の問題が取り上げられています。人間に自由意志があるのかどうかの議論がなされてるのです。この問題が原理の内容で解かれますか?原理では肉身と霊人体の二性性相からなっている、そして霊人体は神からの生素と生霊要素と生力要素で育つようになっている。人間の肉身のように育つようになっているということしか説明できてません。これが概念の恐ろしさなんです。それで真理を知った気分でしょう。現代科学では意識と自由意志の問題でかなり議論されていますが、いまだ回答がありません。

 現代科学の結果なんて何時になるか分かりませんね。私は生きているうちに自分の感覚を通じて正解か間違いかの評価は別にして、日常の生活でそれを解き明かしたいのです。だから感覚を磨いています。この感覚を鈍くさせているのが概念、組織、同じにする力、言葉なんです。でも、それに影響されなくなりました。私の周りの人は迷惑かもしれませんが仕方がないですね。人はいろんな秤で評価基準で評価しますから、それに対しては一応耳にいれておきますが、影響される事はないでしょう。

 日常の意識は肉身が勝手に作った意識であるということを認められるか認められないかにかかっているのですね。そこを通過できるか出来ないかで、自分自身の意識の評価を自分の理想で評価できるようになるのです。この際がイエス様が言われることで、人を裁いてはいけない、その裁きで自分が裁かれる日がやってくるその日なんですね。

 

 

 

 

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