感覚の世界の旅 その122 一人を尊重する

 感覚は人と出合うと一対一の関係を持ちます。その人が唯一の人なんです。学校で生徒が40人いるでしょう。そして先生は同じ教科書を用いて教育します。これが普通なんです。何の疑問もありません。ところがよく考えてみると人間一人一人が個性真理体として唯一無二の存在であるとすると違和感が現れます。

 そろそろ人間が唯一無二の存在である意味を言葉でも明らかにしないといけないですね。一人一人が唯一無二という言葉はどういう意味なのでしょうか。多くの人々は人間関係の中での唯一無二の存在を考えるでしょう。その人の個性、その人を存在、その人の姿とか顔とか形とか違うので個性と呼びます。そして一人一人は同じでないので同じにみるのはよくないと言う程度で説明します。私達の世界での私の存在しか見えてこないのです。それで唯一無二の存在であると説明するしかないのです。

 だから、何か確信をつかめないまま、なんとなく分かったような感じなんですが、やはり同じような扱いをされる事は度々あって解消されないですね。差別を受けたり、比較されたり、評価を受けたりしますね。だからなにかもやもやして本当にそんな世界があるのかと思ってしまうでしょう。

 一人の人が絶対的な唯一無二の存在に感じられない根本的は原因が私はあると思っています。教室で先生が生徒に同じ教科書で教育をします。そして、理解できているかどうかを皆に同じテストをして評価します。そして評価の良い子と悪い子に分類します。だからここに同じ評価基準ではかった正規分布図が存在するのです。実はここには個人の唯一性が無視されてます。個人の唯一無二の存在は比較することが出来ない世界でしょう。一体何処に同じ評価基準で量るものがあるんでしょうか。ここに教育の問題があり、同じ教育をして生徒を評価するシステムが学校にあります。これは個人の唯一性を無視したやり方なのです。だから比較対象されて評価されるその習慣の中で生きるこの中では、順応できる子と順応できない子に別れてしまって、順応できる子は優秀になれます。順応できない子でも努力すれば社会に順応して優秀な子にはなれますね。しかし、順応できない子がいるわけです。そんな子は社会から疎外されていきます。一人の唯一性は無視される教育システムなんですね。

 今の社会では一人の唯一性を見出すのはほぼ難しいでしょうね。自分自身はそんな中で順応できなくて苦悩してた人間です。教育システムに乗っかって社会で幸せに生きるための教育の列車にのっていましたが、やはり順応出来ない自分がいてそれが苦悩になっていました。

 皆さん、このようなシステムに関係なく一人一人には「私の世界」が存在します。それは人間の感覚から作られます。その人間の感覚は人間が作った概念で抑圧されていました。その一番の原因が言語です。言語は何かというと関係で用いるものなのです。もし、自然界の中で一人でいるでしょう。いろいろな生き物と戯れ、いろいろな生命を感じ、いろいろな美しい景色を満喫し、自分の喜びを得られるでしょう。実はそれは自分自身の感覚で得たものであり、それは自分自身の世界を形成するものでしょう。そこにな何にも言葉なんていらないのです。どうして言葉が必要なんですか?森に行って森の姿を体験し、日々変わって変化する森、鳥たちが鳴いている森、いろいろな生き物がいる森の中で体験します。不思議な生き物もいて探求するのも楽しいですね。生き物も警戒心がなくなるとなれて遊ぶことも出来ます。そういった経験をしながら生活する中で言葉なんて要らないはずなんです。

 ではどうして言葉が必要なのだと言いますか?それは人に伝えたいからでしょう。これを人に伝える時に何をどのようにしますか。自分の感覚の一部を形にしないと言葉には出来ません。形というのは概念です。概念化してそして初めて人に伝えることが出来ます。そして人々の前で体験を語ることもあります。これが普通ですね。

 ところが私は語る必要はないと思っています。みんなが知りたければその体験をすればよいのです。みんな森にいって森で体験すればよいのですね。どうして人から体験談を聞かないといけないんですか?いろいろな体験談を聞いてそして聞いた人々はそれで森を知ったつもりになっているでしょう。それが現代の教育になっています。そうなると何でも知ったつもりになるのです。分かったつもりになるのです。人に対しても理解したつもりになります。理解しているよなんて軽はずみなことを簡単に言えるんです。それは無限大に広がっている感覚の世界を知らないから、概念だけで生きるので簡単に言えるのですね。私は死んでもいえません。実はこれが概念の恐ろしさなんですね。この概念の世界では個人の世界を無視するので何でもありの世界になります。

 森を知りたければ森に行けばいいし、人が体験した事を知りたければ自分も体験すればよいのです。すると違う感覚も体験できますね。それが私の世界を作る唯一の方法ですね。言葉なんて要りません。何でもかんでも言葉で片付ける事は私はしたくないのです。感覚を抑圧します。同調圧力、常識、同化圧力、評価基準とかそういうものは感覚を抑圧するのです。それを私は言葉ならぬ力で感じ取っていたので苦悩を受けながら人生を送らざるを得なかったと思います。一対一の関係でしょう。そこには同じにすることが出来ないのです。みんなちがうので一律にして考える事は心が痛みます。

 どうして私が教育者になれないのか、指導者になれないのかというのは感覚で一対一で見る人はかなり難しいですね。一つの人々としてみることで人々を指導して教育が始めて可能なんですね。同じ善悪基準で同じ正しい間違いの基準で、同じ価値観で皆を指導するんです。だからそれに長けた人はそうすればよいのです。私はそのような事をする事は無理です。自分自身が駄目になります。一対一で信頼関係を持てるように努力する人間です。だから偽れないし、自分の責任にするし、全員に対して過剰適応を試みるのです。これは疲れますね。苦悩の毎日です。よく鬱病にならなかったものです。寸前まではなんともありましたが、自分では鬱の自覚が実はありませんでした。誰からコメントしてくれて初めて気が付きました。

 教育は駄目なんです。だから教育ではなくて学びです。40人の生徒がいるでしょう。その生徒に自由に学びの場を作ってあげるんです。自然でも良いし、何でも良いですね。養老猛司氏の実現不可能のプランがあります。それは小学校を廃止することです。廃止して自然の中で遊ばせることなのです。これが私の世界を形成するのです。自分の喜びを感じながら自分の喜びの世界を作るのです。

 今私達が目指そうとしている喜びは皆で集まって喜ぼうとしていますね。それでも言いのですが、本質的に考えるとそれらの喜びは私の喜びを得ようとしている事です。だから一人になると孤独になり喜べないのです。でも、感覚の人は一人で遊び一人で喜ぶことを知っているので孤独は感じないのですね。それを誰もしません。寂しい人だという評価をして、可愛そうな人だという評価をしているのです。そうではありません。

 

 

 

 

にほんブログ村 海外生活ブログ ロサンゼルス情報へ
にほんブログ村