感覚の世界の旅 その116 言葉が壁を作る

 神様を求め、美しいものを求め、綺麗な水を求めたらどうなるのか?良い事と求め、成功することを求め、導かれることを求めるとどうなるのか?綺麗なことを求め、細菌を除去し、汚くなることを嫌うとどうなるのか?

 社会は細菌は除菌といって菌を除去しています。では人間の中にある菌を除去しますか?人間の中にある悪いと評価する菌がどれ位ありますか?良い菌と悪い菌がバランスよく共存している事を知らないですね。それで除菌だというのです。がん細胞も人間の中に普通にあります。それでバランスよく保たれているのですね。

 神様を求め、美しいものを求め、綺麗な水を求めたらサタンを憎んで、汚いものを排除して、汚い水を排除します。そしてそこに住む生き物まで排除するでしょう。良い事と求め、成功することを求め、導かれることを求めると悪い事がおき、失敗し、導かれないことを恐れますね。そしてその原因を何処に求めてますか?私達の日常の生活を見つめてみてください。

 大体私達は日常の生活の中の感覚を無視しています。生活の感覚を無視して理想、天国、神様の願いとか夢を追いながら生きています。だからこれは日常の感覚とはまったく関係ないのですね。日常を見つめるとあまりに現実的になってしまって、理想を追い求められなくなるでしょう。修練会に参加して理想が見えてきて、いろいろな感動を得るでしょう。でも、その日常の生活に戻ると現実に戻る為にその感動は消えていく感覚があります。一体どういうことなのでしょうか。私達が修練会で受けたみ言葉の刺激、礼拝で受ける言葉の刺激、毎日のみ言葉拝読の刺激、その刺激で言葉による理想の世界が膨らんでいくのですが、あまりの現実とのギャップが生じますね。

 それはどういう意味かというと現実を教わった理想の高い概念で評価し始めるからです。天から降りて地上の生々しい減じると見るとあまりに違う現実をみて評価して裁くのを止めないのです。そうして裁くことで感動が段々と薄れていきます。現実は非常に難しいと感じるのでしょう。

 一体どうしてなんでしょうか。

 私はこの事を「私の世界」と「私達の世界」の二つの世界があることを自分なりに感じれるようになりました。「私の世界」は自分の感覚で感じる自分自身の世界であり、誰もが干渉することの出来ない自分自身の独特の固有の世界があります。天に宝を積んでいくならば盗人がきて奪う事はないというのはこの世界の事なんですね。それと「私達の世界」は私達が住んでる世界で私達が日常で感じる人間関係の世界です。人間一人一人は個性真理体といっても分からないでしょう。性格が違うし、行動も違う、表現も違い、体形も顔も違うのでこれが個性だというでしょう。そしていろいろな得意分野を持っているから個性真理体と理解してますね。

 その程度の理解なのです。誰一人として無条件に人間は「私の世界」がある言を知らないのです。それは現代科学で表現されはじめているのは何かというと「人間の意識は幻想である。」ということです。慶応SDM前野教授が受動意識仮説を解いていらっしゃいます。これは私は現状の分析だけであり、そこに何らかの創造のベクトルを説明してないので取り入れ難いのですが、意識は幻想であるというところは認めるところなんです。そのように意識自体は幻想でありこの世のものではないのです。だから私は以前から肉的な五感から作られる意識は霊的五感だということを説明してきました。日常で私達が視覚で見て感じている、聴覚で聞いて感じてる、触覚で臭覚で味覚で感じているその自覚できる感覚は霊的なものだということなんですね。

 一人一人が自分の五感で感じて自分の意識で感じるので生活しているでしょう。肉的な五感で感じて生活しているので肉的五感だと確信しているのです。だから肉的な関係で作られる世界なので「私達の世界」として人間関係しか見えてこないのですね。私達はどうやって霊的な世界を感じることが出来るのですか?

 余談ですが量子論を皆さん知ってますか?これを出来れば理解していただきたいですね。み言葉以上に現実的にアルゴ二ズムを越えた世界が現実に存在することが理解できます。量子の振る舞いは量子もつれといって0と1で決められう物ではないのです。従来のコンピューターのアルゴ二ズムでは0と1で計算していますね。これは決まった計算をするんです。はっきりしているのですが、量子コンピューターはハッキリしない状態で計算していきます。0と1の間で計算するのです。この量子が人間の「観測」で変化します。詳しく知りたい方は勉強してください。知りたいという好奇心というか人間の思いで量子は姿を変えてしまうんですね。この意味がなんだか分かりますか。

 さらに多世界解釈というのがあります。それはいろいろな議論が展開してますが。私の意見としては現実に一つの私達の世界があって、私達が住んでいる地球と宇宙があるんです。これでは多世界解釈にならないですね。しかし、「私の世界」が一人一人あるのです。この世界では私の地球、私の宇宙、私の神様と言っても誰一人として不満を示す事はありません。固有の私の世界があるのです。一人一人にあるのです。だから現代では人口の分だけ宇宙が存在します。実はこれが一人ひりの意識の世界であり、私達の肉体、脳の無意識から作られた霊的なもの、幻想である意識なんです。その意識で私達は日常の生活をしているでしょう。

 実はこの中に入ると何が起きるか。これはどれくらいの人が体験できるか分かりません。数学の関数変換みたいなものがあって関数Aがあります。入力信号のXがあって関数Aを通じてF(X)が現れます。これが何を示しているかというといろいろな現象をみて、私達は評価していますね。この評価を関数Aというのです。だからそこから現れた評価は善悪基準の評価ですね。正しい間違いの評価ですね。これは普通に現れます。脳がそのように計算しているからです。だからなかなかそこから抜け出ることが出来合いので悩むでしょう。人を裁きたくないのにどうしても裁いてしまう自分がいるのです。

 これを「私の世界」にするととんでもないことが起きるのです。入力信号のXがあって関数Aを通じてF(X)が現れます。しかし、この関数Aを通じるのではなく関数Bを通過させるとF(X’)が現れるのです。これが何かを説明してみましょう。関数Aと関数Bの違いはそこに用いる評価基準を外に用いるか内に用いるかによるのです。評価基準は誰でも持っています。評価基準の高低はあります。特に私達は真理というみ言葉を学んでいるのでかなり高いですね。大体の人々は関数Aを使います。すなわち自分の評価基準を外に使うのです。するとF(X)という評価が現れます。善悪の評価になります。関数Bを使うとどうなるか評価基準を内側に使うとF(X)がまったく変わってしまいます。それがF(X’)が何かというと自己実現なんですね。自分が理想に対してどれ位成長しているかどうかの自己評価になります。

 イエス様が人を裁くなといわれ、その裁きで自分が裁かれるであろうといわれます。そして人々はそれで苦しむことを予言されると同時にその中でそれに気が付いて自己の成長を願う人も出てくるということを知っていらっしゃったのです。人を裁いていたのを深い悔い改めで自己実現する人が現れるのです。

 

 

 

 

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