感覚の世界の旅 その113 仏教を冒涜する私かもしれない。

 ある人から見れば私は仏教を冒涜している!と思われるかもしれません。それはこのように書くからです。「人間の一人一人に意識がすなわち法鏡である。」と解きます。意識が自分自身を100パーセント表したものだということですね。こんなこと誰一人として表現していません。何の根拠もなく書く事は仏教を冒涜している事になります。

 実は私は二つの世界が見えます。多世界解釈に置いては一人一人が固有の世界を持っているという解釈になります。だから一人一人が二つの世界を持っている事になるのです。その一つがみんな共通した世界なのです。私達が住んでいるせかいなのですね。そして一人一人の世界があるという意味なんです。

 これを感覚と概念で解きます。感覚は私の世界を形成し、概念は私達の世界を形成します。目に見えている世界を指していて主に人間関係を示しています。自然界には概念という概念はないからです。概念は人間が勝手に作りました。人間が現れないと概念は存在しません。

 意識は法鏡という表現をしていますが、逆に意識が自分自身ではない部分を教えてほしいですね。何処か逃げ道があるのでしょうか。例えば誰かが魔術でコントロールしているとか、操っているとか、見えない霊的な世界の影響を受けているとか、呪いを掛けられているとか色々考えますか?そして私ではないと言うでしょう。

 そうすると私の責任はどうしたら成立するのでしょうね。逃げ道があるのだから逃れられますね。そして私の責任を回避できるのです。だから私の責任というのは何処にあるのでしょうか?そこが見えないでしょう。実は人間はいつも私達の責任にして私の責任を回避しているのですね。根本的に考えないといけない課題が自分の意識を中心として存在するのです。

 実は信仰で回避しているのです。サタンが悪い、悪霊が悪い、先祖の霊が悪い、というように見えない世界で逃避しています。では自分は何なのですか?自分の責任は先祖解怨することですか?祈ることですか?それが私の責任ですか?皆さんはそのように考えていらっしゃるのはよく知っています。だから私は不信仰になります。不信仰宣言しました。それは私の世界で私の責任にする為です。私の責任はサタンが悪い、悪霊が悪い、先祖の霊が悪い、というように見えない世界にあるんではなくて、自分の中にあるんです。

 困ったものですねこんなこと書くなんて。不信仰者なので仕方がありません。無視してください。

 意識は自分自身を100パーセント映すものです。それを誰一人として気が付かないですね。気が付いたら大変な生活になってしまうのでそれを知っているので、どこかで逃げ道を作ります。これを認めると、

 言い訳できません。

 一人に理解を求めることも出来ません。

 人を裁く事はできません。

 人を裁いた裁きで自分を裁きます。

 孤独を覚悟してください。

 認められることもありません。

 人に教えるものは何もありません。

 ETC

 これらを日常の生活で続けます。絶えられますか?神様が愛するものを孤独の立場に追いやるのはこの世界を通過して私の責任である事を自覚させる為ではありませんか?今まではいくらでも逃れられましたが、逃れる道がないのです。こんな道を私は毎日通過してきました。今だからいうのですが、誰一人として相談なんて出来ないでしょう。理解する人は一人もいないからです。だから沢山人がいても私はひとりでこの世界を歩んでました。

 繊細で感じやすく、人の感情も直感で分析してしまって、分かってしまうのですが、何もいえないのですね。何も言わないで歩んでました。言ったら馬鹿扱いされるか、不信仰者扱いされるかですね。今も私は苦悩の中で歩んでます。仕方が無いでしょう。自分では表せないので仕方が無いのです。そして船は組織が願う方向に進んでいるし、何もいえないでしょう。だから船の中で苦悩を感じつつ生きるのです。

 

 

 

 

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