感覚の世界の旅 その112 自分が正しい。

 自分の感覚に入っていくと実は自分が正しいかどうかもわからない、正しいとか間違いとかという評価基準がないそんな境地になります。それを少し自己分析してみました。これは感覚の人間の一つの特徴のように思います。

 感覚は動物から来ていて動物は感覚で生きるので一つ一つの存在が別々の存在であると計算します。計算するという表現をしたのは動物と人間は違うからです。間違えないようにする為に動物は計算するという表現を使いました。私も生き物はデカルトと近い考えを持っていて動物は高性能の生体ロボットだと考えています。絶対的な法則に従って、動物を構成している量子、原子、分子、細胞そして体の臓器、そして体が機能しているわけですから、絶対的な法則から逸脱する事はありえないのですね。だからこの機能に従って存在する動物は未来の予測は出来ません。無限大の多様性を秘めている世界で生きる生き物には今、この瞬間というのが全てなんですね。そしてあらゆる存在も違う存在として認知するといえます。これは養老猛司氏が犬の例を使って説明されています。ほぼ間違いないだろうと仰ってます。だから動物は言語を話さないのだとも言われてます。私もそう考えています。人間だけが同じにする力があるそうなのですね。

 人間の肉身も動物と同じです。人間の体自体も動物から進化しているので機能が極端に変化するとは考え難いですね。人間の体もそのように今、この瞬間、存在しているものは別々で違う存在であると、人間の感覚は認知していると考えるのがよいでしょう。ここまではよいですね。だから私達は感覚で生きるならばこの瞬間という今が全てになるはずなんです。仏教ではあるがままに生きるというこの考えは今この瞬間の出来事をそのまま受け入れるという意味なのでしょう。あるがままに生きる姿勢がそうですね。ならばですよ、正しいとか間違いというその評価基準なんて存在しないのです。

 一体何処から現れますか?原理講論でも個性真理体を解いています。

 個性真理体とは原理講論より「神のすべての実体対象に備えられている主体と対象において、その対象の中心がその主体にあるので、主体と対象の合性体の中心も、やはりその主体にある。さらには、その主体の究極的な中心は神であるので、その合性体の究極的な中心もまた神である。それゆえに、神の三対象が相対基準を造成して、それらの三つの中心が神を中心として一つになり、授受作用をすることによって、三対象目的を完成するとき、初めて、四位基台が完成できるのである。したがって、四位基台の究極的な中心は神である。このように、四位基台を完成した各個の被造物を個性真理体という。」と説明されてますね。だから一つ一つの存在は別々の存在であり、その主体と対象が四位基台を造成して新しい個性真理体を作るのです。別々の存在なので必ず相対基準と授受作用が必要なのです。人間においてはそれを認められないみたいですね。

 これを感覚で捉えるとよく分かります。感覚で感じる人は自分という存在が個性真理体だと説明されている存在になります。「私の世界」を感じることができるのです。感覚は皮膚を中心として考えても内側のものですね。日常の生活でもその感覚になって生きることになります。いつも沢山の人が回りにいても一人の私の感覚を感じながら生きます。だから人と関係を持つ時は一対一の関係を作るようにするのです。それが基本の生活になるのですが社会は違います。人間関係は一対一の関係で見てくれません。そして一人一人の存在は無視されます。一人一人の唯一無二の存在なんて思わないでしょう。そんなの関係ない社会ですね。だから人々はより知名度にある名札を得ようとし、人々を支配できる立場に立とうとするし、そのために生きなければならないのです。哀れなものです。

 感覚は一対一であり、一人一人を唯一無二の存在として見えてしまうのでその関係を結ぼうと努力します。しかし、それが出来ないのでどのような生活になるかというと、それが過度な承認欲求となって過敏適応をするんです。名札のある人の前に立つとその名札に圧倒されてしまいます。支配をうけるのです。利用されるのです。良いように扱われます。すべて自分の責任にして、自分が被ってしまいます。そして自分が得する事はありません。損ばかりするのです。こんな自分がビジネスしていたのですからね。

 「自分が正しい」というその評価基準はこの社会の特徴です。これをなんと言うかというと概念で作られた社会と言います。概念で作られた世界というのはいつも「比較」という言葉が成立するのです。それが何になって現れているかというと正規分布図になって表れます。評価基準のひとつの手法です。IQ測定、偏差値とか他と比べる為の評価基準になっているでしょう。これは別に悪くないんですが、これらによって人間の感覚が抑圧されているのです。感覚が主体で概念が対象になるのが良いと思うのですが、逆転していて感覚が抑圧されて概念の世界が出来上がっているのですね。だから感覚で生きる人々はかなり抑圧された生活になります。それが人生に苦悩につながるのです。

 しかし、感覚が強い人はこれらを克服します。自分の課題として克服できる能力があるのです。どうしてかという苦悩の原因が自分にあると認識できるからです。認めるのでそれが可能です。これは天才の人を困難な環境下から生まれてくるひとつの現象ですね。メシヤの誕生はこのような環境からうまれてこなければなりません。メシヤは感覚の方です。人間は誰でも生まれた時は感覚だけなんですね。言葉を話さない赤ちゃんは感覚だけでしょう。それを何処まで維持できるかです。私は3歳児まで言葉には興味なくて遊んでました。アインシュタインは5歳までだそうです。

 始めは感覚なんですが、親が言葉を教えますね。いろいろなものを教えます。すなわち親が概念をきっちりと教え込むのです。言葉が理解できるようになったら、正しいことと間違った事を教えます。み言葉が理解できる年齢になったらみ言葉の概念を教えます。誰一人として感覚で教えませんでした。感覚で教えるられるのは子供の良心を感じれる親が可能です。親が感覚が抑圧されていて概念で生きるので子供には概念を教えるのです。仕方がありません。

 こうして感覚の世界では比較できないでしょう。だから私は善悪、正しい事と間違ったこと、そして自分の考えている事は絶対に正しいなんて思わないですね。ここにひとつ愛がある人間の姿があるのです。自分が正しいと思わないので、正しい、間違いの評価基準がないので人の話を謙虚に聞けることなんです。そして人をそれで評価しないので人を受け入れられやすくなります。一旦、あの人は良くない人だと評価してしまうとその人をどうして愛するんですか?無条件の愛の実践は不可能です。

 

 

 

 

 

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