感覚の世界の旅 その110 感覚人間は愛の実体

 実は感覚人間の人は誰でも受け入れられるので愛の実体になれます。愛の実体にならざるを得ないのです。そして主管性も愛の主管性になります。逆主管ではなくなります。それを今日は説明してみようかと思います。

 

1、人を裁かない。敵とか怨讐が存在しない。人を簡単に評価しない。ということですね。人を裁いたその裁きは自分を裁き、敵とか怨讐にする原因が自分にあり、被害者意識になっている自分をすぐに悔い改められるので敵、怨讐も存在しません。そして人を簡単に評価しないので、人を受け入れられる事が出来ます。「あの人は臭いにおう人だ!だから嫌なんだ。」という評価基準は自分の中にあるので自分で勝手に人を愛せなくしています。愛せない基準を自分で勝手につくって怨讐を勝手に作って、敵を勝手に作って許して愛さないといけないなんてへんな事を言うのです。許してなんていう言葉がありません。なぜかというと原因が自分にあるからいえません。

2、私の責任です。私達の世界では私達の責任にしてますね。私の責任は私が感じる自分の意識に対する責任なのです。意識の原因が自分にあるのに自分ではないと言い張ります。そして正当化しているのですね。本当は自分が作った脳が無意識から意識化しているにもかかわらず、その意識は自分の意識ではないという矛盾した立場にいるのです。自分の意識の責任は自分にあるんですね。だから被害者になった自分が幼いのです。心情蹂躙を感じている自分が幼いのです。それを知らないのですが、感覚人間にはそれが分かります。

3、名札に囚われない。肩書きに囚われない。一人を一人の人間として会うことが出来るですね。一人一人が別々の存在なのに、そして一人一人が同様に変わらない尊い唯一の存在なのに、肩書きがある人、能力のある人、地位名誉のある人、有名な人は素晴らしい人間だといいますね。そして乞食、有名ではない人、精神異常者とかそんな阻害されやすい人を押しのけるでしょう。それは全て肩書き、概念、名札、先入観に囚われているのです。そして勝手にそういうような名札で人を見る事は何が起きるかというと自分自身の感覚を抑圧して麻痺させることになるのです。

4、善悪の評価基準がない。良い行動、悪い行動の評価基準がない。これらの評価基準が感覚の世界にはありません。比べることが出来ないからです。評価という概念は沢山の人が集まって、沢山人がいれば居るほどそれは性格に現されるようになっています。そこで平均値を作って正規分布図を作って人を評価するでしょう。人の評価基準になります。それは他の人と比べてみて違う人は疎外されてしまったり、非常識物であると評価されて、そしてのけ者にされていくのです。感覚の人はそのように見ないので受け入れる門がかなり広くなります。

5、教育という言葉がない。環境を作って人と学ばせる。子供に対しては学びの環境を作る。自発性に任せる。教えるという言葉がないと言うように、子供に対しては親は何一つ教えるものがありません。教えるものが無い変わりに環境を与えてあげることが出来ます。受け入れるかどうか、学ぶかどうかは対象次第なんです。だから学校教育は何かというと、概念を教え込んでいます。概念なので教える事になるのです。言葉は伝えるものでしょう。言葉を使って教えます。ところが感覚は教えることは出来なくて、ただ、安全な環境と子供の好奇心に従ってよい環境つくりをしてやることが重要になってくるのです。そして子供達の感覚を育てるには今子供がかんじていること、今子供がしている事はこの瞬間しかないので、この瞬間を大切にしてやれるのです。そうして子供の感覚を育てられます。「明日にししょうか。明日遊ぼうね。今度買ってあげるから」という断り文句でその瞬間をあやふやにします。そしてその約束を裏切るのです。命がけで守ってあげようとはしません。

6、一対一で人間関係をもつ。人を騙すこともない、良い関係を持とうとする。一時的な関係はない。人を騙したりいい加減に付き合って永遠の良い関係を作ることが出来ませんね。裏切らない関係を作るのです。どんなことでも受け入れられる、秘密の事でも受け入れて上げられる、人に見せたくない事でもそれを受け入れて上げられることが出来る関係を目指すんですね。そのために今この瞬間に全てを投入するのです。人は簡単に都合が悪くなると裏切ります。自分の都合で裏切っていくんです。だから裏切らない一対一の関係で関係を築こうと感覚の人はします。

7、とにかく対象の全てを受け入れて、対象のしたい事をさせてあげたいと思うのです。自分の時間と自分の喜びは自分が一人になった時にすればよいことであり、人といる時は人がしたい事をさせてあげることなのです。私が日常の生活で過剰適応になるのはそのためなんです。中途半端で疲れるときもありますね。(過剰適応とは、自分が置かれた環境に合わせようと、自分の考えや行動を合わせすぎてしまう状態のこと。 心理学では自分の都合よりも周りを優先させて、無理しながらもがんばっている状態を指す場合もあります。 過剰適応を起こしやすいのは、「人に良く思われたい」「認めてもらいたい」といった承認欲求が強すぎる人。)承認欲求というのは悪い事ではないとおもいます。感覚の人になれば問題ありません。概念では自分が承認されないというのは許せないとか相手を責める形になるのです。しかし、感覚の人に置いては対象に全て100パーセント任せてしまうのです。

 

 いかがですか?こんな人は愛の実体ですか?一応何もしません。人を愛する行為とか人の為に生きる行為を無理やりはしないですね。見せ掛けですることもありません。愛の基準を保っている事が出来るのでいつでも愛は流れます。

 

 

 

 

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