感覚の世界の旅 その109 日常の意識を見つめる

 自分の日常の意識を見つめることができますか?これはとっても大切なことなんです。外的なものをばかり求めているとわからなくなるなります。原因は何にあるかと言うと、概念で生きているからです。いつも頭で考え頭で理解し頭で結論を出しています。これを概念で生きていると言う事なんです。概念が強くなると感覚が抑圧され、感覚が麻痺してきます。
 だから現れてくる日常の意識と言うものは概念に転換されていくのです。日常の意識で私たちは生活していますが、自分の意識がどこから来ているかって言うことを知らないで生活しています。そういうもんだと思ってしまえば済むからです。自分の意識なんて考えなくても良いでしょう。そんなことを考えていると、反対に頭がおかしくなって、生活自体がおかしくなってしまうでしょう。さらに悩みも多くなってしまいます。
 私たちの意識と言うものは外的環境の評価として現れてくるんです。外的環境の評価として現れるので、人間は良いものを願い、正しいものを願い、美しいものを願い、いい匂いのするものを願い、素晴らしいものを願ったりするんです。だからその頂点に存在する神を作って神を崇めていくことになっていきます。当然、自動的に、その反対の減少まで起きてきているんです。そういうふうに私たちは快適環境を評価して考えて生活しています。こんな事を書いたら神を不信する不信仰者!と激怒されそうです。創造主は否定しておりません。
 私たちの教会はき言葉の言葉重視と言う真理があるので、その真理に従って理想の環境を作ろうとしているでしょう。私が願うのは言葉の概念ではなくて日常の一人一人の感覚に戻していく事なのです。だからこの道が行き着くところはどこかと言うと、それを完全に否定されるような環境が訪れるかもしれません。それはわからないんですが、私たちがそれに気づいて、本質は環境にあるのではなく、自分の内面にあると言うことを気づけるかどうかなんです。

 これが最初の分岐点になるのではないかと私は考えています。この分岐点と言うのはすなわち自分を見つめていくことなんです。まず自分の日常生活の意識を見つめることです。これを現在の用語ではメタ認知と呼んでます。今もメタ認知と言う言葉は使われています。

 (メタ認知とは「自分の認知活動を客観的にとらえる、つまり、自らの認知(考える・感じる・記憶する・判断するなど)を認知すること」です。 自分自身を超越した場所から客観的に見ることに加えて、自分自身をコントロールでき、冷静な判断や行動ができる能力までを含めて、メタ認知能力と呼ばれています。)

 自分の意識をメタ認知することができても、環境の中の私と私のメタ認知をする事はできる人はいます。ある空間の中の私と言う存在はメタ認知できるんです。私が記憶のあるのが学生時代にそれをしていました。いつも人の目が気になるとか、人の視線が気になるとか、どのように見られているかとか、そういった他人の視線を感じる事は、ある空間の中での自分の立場を見つめていることなんです。いつも私はそれをしていました。だから勘違いすることもたくさんありましたね。

 たとえば人から声かけられたときに、「あんたじゃないよ」と言われてしまったこともありますね。てっきり自分のことだと思っていたのに、隣の人に話しかけているんです。喫茶店でコーヒーを注文してコーヒーを飲んでいるんですが、いつも人の視線が気になるのですね。この感覚を持つのは結構多いと思います。

 しかし、このメタ認知ではなくて自分の感じた意識に対するメタ認知です。例えば被害者意識です。自分の意識と言うものがあります。このそれを感じた瞬間っていうのがあるでしょう。その時にメタ認知の仕方は、他人と自分との関係におけるメタ認知と自分の感じたその意識に対してどう取り組んでいくメタ認知があります。

 感覚の人と言うのは今この瞬間がすべてなので自分の感覚に対してどのように取り組むかと言うことを考えます。感じた自分の意識に取り組むのですね。困難な環境の中で当然ネガティブな感覚が現れます。それが意識なってネガティブな思いに変化するんです。そのネガティブな思いに対して、感覚の人はより良いポジティブな感覚に耐えようと努力するんです。自分の思いを何とか転換したいと思うのでス。外的な関係とは関係ないでしょう。そういう困難の受け止め方をする人は、天才の脳を作る可能性を充分秘めています。

 ところがこの自分が感じた。ネガティブな感情が外からの影響によって感じさせられたと言う意識になると、被害者意識になって、原因を外的に修繕します。今の現状の姿とならざるを得ないんです。これがすなわち概念の世界なんです。概念の世界は、私たちの感覚を抑圧し麻痺させている最も大きな力を持っているものなんです。

 私はこれを最近なってさらに感じるようになりました。自分の周りの環境がありますね。その環境は良いこと、悪いことと評価してしまいがちな環境ではあるんですが、それを評価しないで、自分で受け入れる努力をするんです。予想外のことが起きたとしても、瞬間的には苛立ちますが、それに対する自分のイライラは自分自身の未熟さを表しているので、しっかりとその現状を受け止める努力をするんです。そこには何の言葉もいりません。他人に知ってもらう必要もありません。他人に理解してもらう必要もありません。表現する必要もないんです。しっかり自分の中で自分自身を育てていくことなんです。私はそういう風に感じて毎日実践しています。

 これは感覚主体の人でないとできないことなんです。いくら概念の人が頑張ってもそこには入っていけないんです。そこに入っていくためには生死をかけて戦わないといけない環境が待っています。それが何かと言うと1つが孤独です。神からの見放された孤独の立場を通過しなければ感覚の世界には入る事はできないです。これは断言できます。だからいくら教会の人だと言っても、長年信仰してこられた先輩家庭だとしても、この道を通過できない人は同じなんです。

 1970年に日本は概念の世界から感覚の世界に至ることができるそのチャンスがありましたそれがすなわち日本に聖進様を迎えたことなんです。聖進様は感覚の方でいらっしゃいます。感覚の人は概念の世界に飛び込むと、どういう現象が起きるかと言うとそれが裁きであります。いろいろな問題があるのです。日本に迎えた聖進様を誰が理解できたでしょうか?阻害して孤独の先に追いやったのではありませんか?でも、聖進様はおそらく孤独だとは思っていらっしゃらないと思います。受け入れられてもらえない苦しみはあるかも知れません。それは分かりませんが、普通の人が感じる孤独感はないと思います。

 どうして自分の感覚に目覚めるのが難しいかというとその原因が概念にあるからです。概念自体は悪くはないのですが、感覚が麻痺した結果生まれた概念だからです。その様な意味のある概念が沢山あります。比較することで評価する概念があるのです。それは人間を比較して個人の感覚を無視する言葉になります。

 私は苦悩の人生を送ってきましたが、茂木健一郎氏いわくこの苦悩が良いそうです。天才脳を作るのに非常に良いそうですね。アインシュタインも5歳まで言葉を話さなかったそうです。関心のある方は見てください。

 

 

 

 

 相当感覚が強かったかもしれません。私は3歳まで話さなかったので母親が心配してました。そして子供のころから何か自分が浮いている感覚があって、一人で遊ぶことが多かったですね。人と群れて喜びを得るのではなく、一人で喜びを得る事をしていました。だから生まれた時から感覚が強い人間だったと思うので、今はそれを簡単に出来ます。その代わりとんでもない苦悩の人生を通過してきました。

 

 

 

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