感覚の世界の旅 その105 本然に人間の考察

 私達の身体は動物と同じですね。動物は感覚があります。人間の目から見て感覚があると表現しているかもしれません。というのは動物も五感があり、それで環境のいろいろな情報を取り入れて環境の中で生きていますね。その様子を観察して人間は動物にも感覚があり、動物にも意識があるという評価をするのです。動物を愛したら愛を返してくれるからです。美を返してくれるから、動物にも人間と同じ意識があるんだと分析します。しかし、真実は動物自身に聞かなければなりませんが、実はそれは不可能なんですね。だから確かではありません。

 でも、人間の目から見て感覚のようなものはあるというのは確認できますね。なでたら喜ぶでしょう。叩いたら怒ったりします。いろいろな反応をします。だから環境に対する感覚を持っています。動物は環境とその動物はその瞬間で環境の情報を取り入れて分析して行動しますね。瞬間的にします。だから今この瞬間が全てなのです。だから感覚が全てなのですね。

 では人間は違うのでしょうか?実は人間も類人猿から進化したのなら人間の体をそのようになっているのです。環境を感じて環境の中で生きるようになっています。日常の衣食住の生活で自分の周りの環境がありますね。自分の周りの環境でも十分に人間は完成することが出来るのです。現代のような高度な生活環境が必要かと考えた時にそれは必要ないのですね。自然環境はとっても重要なので今のような高度な生活環境はかえって必要ないのですね。

 人間も今、この瞬間、自分の周りの環境で十分なんです。人間の本性を感覚を通じて創造本性として自己創造するんです。だから感覚は今この瞬間の自分の周りの環境、すなわち創造主が創造した自然界を通じて本性が創造本性として現れて学習できるというお話なのですね。私はこれが本然の人間の姿ではないかと今のところ考えています。

 この今、この瞬間の自分の周りの環境が見えなくなっていますね。その理由は一人一人の感覚が麻痺してしまっているからです。自分自身のこの感覚を認めると何が起きるかというと、全ては自身の責任ですから「私の責任」になります。今この瞬間に自分の感覚で感じたその感覚を通じて意識で現れているのですから逃げ道がないでしょう。だから私の責任になるんです。私の世界がそこにあるのです。これは間違っているかもしれません。

 この仮説でお話を進めたいと思います。どうしてこの感覚がなくなったのか人間の感覚はあるんですが結果的に人間の感覚が現れるでしょう。「自分の脳のがそれを意識に現している」ということです。しかし、全ての人間はこれを受け入れることが出来てないのです。私が被害者意識についてよく書きますね。自分の意識がの自分に対する行為があります。その行為はその人の言動として現れます。それを自分の脳が何かの敵対反応をして敵から自分を守るための身体的感覚が被害者としての意識として現れることなのです。このプロセスを考えないですね。被害者意識になったという事実だけを見ます。だから自分が被害者なんだから加害者に何らかの賠償をしてもらわないと被害者の意識は収まらないですね。

 これなんです。人間が堕落性から抜け出ることが出来ないのはこれが問題なんですね。ここですでに正当化し、自分の責任ではないと感じ、逃げ道を作るのです。自分自身の意識というのは自分の感覚から現れた、自分の無意識から現れたものだから自分自身の問題なんです。人は関係在りません。でもかなり厳しい環境が今まであったのでそこから抜け出るのは難しくて被害者意識から脱却できないので被害者を守る為の法律が必要になります。これは必然的に現れますね。これは仕方がありません。

 しかし、メシヤたる方は自分の命の生死の境でも被害者意識にはなられませんでしたね。イエス様も十字架の死に至るまで被害者意識にはなられませんでした。でも神様には疑問を投げかけられました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と。しかし被害者にはなられてません。それはご自身の力不足とも感じ取られたかもしれません。私だったらそう思います。感覚の人間はそう感じるんです。だから人々に対しては何も言われないのです。

 ですから、私達の「日常の意識」がポイントになります。それを見つめられなければなりません。見つめられなくなるとどのような生活になるかと言いますと、感覚を麻痺させた生活です。すなわち今、この瞬間の周りの環境、さらに自然界を無視するのです。無視して見えなくします。それが人間関係で用いる概念なんです。そして人間の概念で作られた環境なんですね。これらのものが私達の感覚を麻痺させるのです。そして当然ながら人間の本性は堕落性本性として現れてきます。

 日常の生活で事実でないものがあります。それはインターネットです。インターネットの情報です。情報に時間差があります。それから情報化されてます。デジタル化されてます。そして目の前の環境ではなくなっています。だからこれは概念なんですね。講義でいろいろな話を聞きます。そして感動します。良い話を聞いたと思います。これも事実ではないので概念なのです。話を聞いた事実はありますが情報は言葉なので概念なんです。映像にしてもそうです。養老猛司氏は概念というのはコピーできるんですね。写真もコピーできます。録画したら、コピーできます。録音したらコピーできますね。これらは概念だからなのです。

 だからこれらの概念、み言葉の概念を生活化しないと意味がないのです。その生活化するためには感覚の世界でおこなうのです。だからどうしないといけないかというと日常の生活で今、この瞬間の周りの環境の中でみ言葉の生活化されなければならないのです。言葉の意味がありますね。意味は分かるんですが、それを生活の中で感じる感覚に繋げていくんです。するとその意味が段々と広がっていくのです。広がって感覚の中に消えていきます。そんな体験をしないといけないんですね。消えていくとそれは実は良心の力となって現れてくのです。自己の実現の為に現れます。

 

 

 

 

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