感覚の世界の旅 その100 概念世界と感覚世界の説明

 概念の世界というのはどういう世界かというと今の世界が概念の世界なんです。概念の世界が普通になっているので概念の世界で生きているなんて言う記事を書いてもわからないですね。ではいろいろな例で説明してみましょう。どれ位書けるかわかりませんが挑戦してみます。

 

 2X=6でXはいくらですか?と問いかけに対してX=3ですね。正解です。小学生から中学校に入ると算数から数学に変わります。変数が導入されます。これでわからなくなってしまう子供がいるそうです。X=3なわけないでしょう。同じじゃないでしょう。というのです。感覚で見ると違うのですね。これは養老猛司氏の言葉なのですが、Xと3は同じなんですかということなんです。Xと3はどう見ても違ってます。違うでしょう。同じに見えますか?これが感覚の人の見方です。概念はその文字の背後に意味付けをしていてそれを人間は概念で作り上げて、その概念を皆が学ぶことで作り上げた形の背後にある物なのです。

 

 感覚で人を見ると一人一人が違います。10人が部屋の中にいるとします。すると10人はみんな一人一人別々の存在なんです。そのように見ると差別なんかもありません。一人一人が個性真理体であるので違う人々であり比較できるものではない存在であるといえるのです。いろいろな人がいてよいでしょう。乞食、大統領、子供、お爺さん、美人の女性、有名人、スポーツの能力が長けてる人、お婆さん、病人、気違いというような人が一つの部屋にいるとします。感覚の人は一人一人を一人の人間として接するんです。同じ人間でしょう。違いがありますか。しかし、概念の人は評価しますから自分の評価基準で人を見て、評価の良い人と関係を結びます。そして評価の悪い人に対しては無視します。

 

 感覚の人は感覚は今の自分の周りだけの世界でしょう。他の世界、他の国、他の環境なんて関係ありますか?自分の周りの環境が全てでしょう。そして今この瞬間が全てなんですね。自分の周りの環境がありますが、今この瞬間が全てなんです。明日の予定を立てたり、未来を予測したり、未来に対してよい願いを立てたりします。実は信仰が見ない未来に対する信仰、見えない神様に対する信仰の為に今自分の周りの環境で生きる事を忘れてます。そして悪い事が起きると過去の自分の行いだとか、過去の罪だとか、悪霊だとかいろいろな見えない事実でない事に囚われて今この瞬間を失うのです。今、この瞬間の環境だとしてもその環境をそのまま受け入れないで評価しているのです。そして良い環境、良い結果だけを受け入れるのですね。これが概念で生きる人の姿勢です。感覚の人は今、この瞬間の環境をそのまま評価しないで、決め付けないでそのまま受け入れるのです。

 

 事実と事実でないことがあります。感覚の人は事実の中で生きます。今、自分の目の前にはる環境の中で自然によって作られたものと人間が作ったものがあります。これは事実の世界でしょう。しかし、人間の作ったものというのは変化がありませんね。多様性がありません。だから自分の内面を外の環境に投射しても単純なので単純な学習しか出来ないのです。自己実現は複雑でなければならないでしょう。だから自然に作られたものというのは無限大の多様性に満ちているので、自己創造に最も適しているのですね。だから感覚には自然が一番なんです。何も語らないで感覚で多様な自然を感じながら生きることが人間の内面の本性を引き出して創造本性として現すことなんですね。人間が作ったものというのは自分が変らないで環境を変えて住みやすい環境を作りたい願望から作られました。だから自分が変る事はしません。これは概念の人がやることです。自分が変らないで環境が変わる事を願うのです。人が変る事を願うのです。感覚の人は自己実現できなければ意味がありませんね。生命の目的がそこにあるのにそれができない事は命にかかわります。

 

 人間が作った情報があります。感覚は今この瞬間の自分の周りにある自然界が重要なのに、概念の世界では全世界の様子をデジタル化して情報化して飛ばしてますね。これは何の意味がありますか?何をしているのでしょうか。それが素晴らしいと思っているのは概念の世界を作ろうとしている事です。人間の感覚を無視して概念の世界を作るのです。イーロンマスクの火星移住はそれを示してますね。火星にいって何をするのですか?人間の本性を環境に映し出して学ぶことなんて出来ないでしょう。火星で生きるには地球の環境をそのまま持っていく必要があります。情報化社会になってシンギュラリティーが来るなんで言いますね。そんな世界は人間の感覚をことごとく麻痺させてしまいます。

 

 私達のみ言葉ですが、私達のみ言葉の訓読で沢山の記憶が成されました。いろいろな勉強をして沢山記憶してますね。それは概念です。言葉の概念で記憶されています。それを用いてみんな概念遊びをしているでしょう。神学を学びます。これも概念で学び概念で色々と考えるのです。み言葉も概念で学び記憶して、それをまた概念で用います。教科書どおりの講義をします。日常の生活とはなんら関係のないものなのです。日常生活の一人一人の意識にかかわることがありますか?これはまったく無いはずなんですね。み言葉を勉強すればするほど、記憶すればするほど、頭がでかくなって偉くなったと、成長したと錯覚するんです。そして自分の周りに多くの人々が集まって自分の話を聞く人が多くなると、自分が成長したんだと錯覚します。これらは全て組織なので組織ででは概念によって作られるので概念で縛られます。感覚の人はこのような中でどのように生きるかというと、私の世界を持っています。沢山の人がいたとしても客観的にメタ認知しながら自分の姿を見れる人です。そして客観的に自分の意識をメタ認知できる人は感覚は麻痺する事は無いでしょう。これが最近言われている良い意味での孤独です。一人ぼっちは可愛そうな人だと思うでしょう。礼拝でもそんなに一人でいないでみんな集まってきなさい!なんていいます。一人でいる事がなんか可愛そうな人だという評価をしているのですね。でもそれは概念の人が評価する評価基準なのです。それを知りません。感覚の人を理解していないのです。

 

 それから評価という言葉を書きましたので評価という観点からも感覚と概念の人の違いを書いて見ましょう。み言葉を沢山学んで知識が沢山詰め込まれました。その知識、理想を一体何に使っていますか?評価基準になっているでしょう。それを組織に使い、環境に使い、人に使って人を評価してよい人悪い人と分けてますね。神側の人だとかサタン側の人だとか分けてますね。みんな一人一人違う人間だという感覚だったらその様なわけ方しません。思想、考え、姿、形、人種、色などは関係ないのです。人間一人一人は一人の人として付き合うのが感覚の人なんですね。概念はそれを抜きにして評価してしまうのです。そして善悪を分けます。感覚の人はその評価基準をそうするかというと自分に向けるのです。自分にどのようにして向けるかというと、日常の意識があるでしょう。その日常の意識は自分の脳が作ったものであり、原因が自分にあるという事を認めた時にその評価基準が自己実現に変化していくのです。すなわち人間の本性が創造本性として現れるのです。そうしないで意識を正当化しているので、人間の本性は堕落性本性として現れるしかないのです。

 

 沢山書きました。一応ここまでにしておきます。

 

 

 

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