感覚の世界の旅 その99 どれ位の向上心を持ってますか?

 理想は原理講義でかなり高まりました。み言葉の訓読でかなり高まりましたね。沢山読んで、色々感動して、自分自身の理想の姿、国の理想の姿、世界の理想の姿が段々と理解できてきました。これは大変素晴らしいことです。ところで自分自身の理想の姿を持ってますか?理想が高いと生きているこの世界になんら理想を見出すことが出来ず、結局人間は死ぬんだから、今死んでも同じでしょう。だから今死ぬんです。

 どんな理想を持ってますか?社会の理想の姿ですか?人間関係の理想の姿ですか?世界の理想の姿ですか?理想の神を中心とした世界ですか?平和な家庭ですか?理想の自分自身の姿ですか?いかがでしょうか?どんな理想を描いていらっしゃいますか?誰でも理想は持っています。私達は真理といわれるみ言葉を勉強したのでかなり理想は高いですね。

 この理想の基準がありますがこの理想の基準で評価しなければ理想に近くなれません。だから評価します。この評価基準は誰でも持っています。この評価基準はなければなりません。何故かと言うと人間は評価するものだからです。この評価の持ち方によってはその意味わいわ大きく変わってしまいます。この評価基準を何に私たちは使っているのでしょうか?良く見つめてみてください。環境だったり人だったりしますね。大体すべての人々がこのように評価基準を使っています。

 環境を評価しています。環境は二性性相ですから善と悪なんです。二つに割くと善の表示体と悪の表示体になります。そして理想は死亡の血を流して一体化することですね。善と悪と評価しましたね。今日までの歴史が善悪の闘争の歴史になったのは、これが原因です。評価基準と言うものは時代に変わり、だんだんとその基準は高めて高められましたね。だから評価する基準と言うものは、だんだんと引き上げられ人々もだんだんと時間をかけて引き上げられていくのです。

 この引き上げられた評価基準というものがあります。私たちは毎日の訓読生活とか御言葉の拝読、あるいはいろいろ感動通じて、私たちの評価基準はだんだんと挙げられています。理想の高い人はかなりその評価基準は高いでしょ。完璧主義の人もかなり高い評価基準を持っています。これらの評価基準は一体何のためにあるのでしょうか?

 結論は基本的には自己実現にあるんです。自分自身を自分の理想の通りに高めていくことなんです。これが私たちが日頃評価してる評価基準の持ち方なのですが、これがほとんどなされておりません。これが現状なんです。自分自身を評価する事は日常の生活ではないんです。

 イエス様が人をさばいてはいけない、人をさばいたその裁きで自分が裁かれるその日が来るだろうとおっしゃったでしょう。その言葉の意味は人が自分を裁くのではなく、自分が自分自身を裁くんです。その日が必ずやってくるとおっしゃっているんです。これが理解できるでしょうか?

 しかし、現実の生活の中ではなかなかこれができません。頭でわかってても現れてくる思いは裁きの思いばかりでしょう。その裁きの思いは止める事はできないんですね。どうしてもできないんです。だから手放しなさいという方法が一つはあります。手放せば考えなくてもよいわけです。それも一つの方法かもしれません。

 しかし、私はそれでは転換できないので大きな飛躍は望めません。少しは変わった実感が持てるでしょうが、同じ環境がくると同じような意識に囚われます。そしてさらにそれも忘れようとしますね。それが一生涯続きます。それでよいでしょうか。人間の脳はそのようになっていないでしょう。学習しないといけないのでしょう。どうして学習しないのですか?学習する為には何をしないといけないのですか?

 それは私たちの日常の意識に関わってくると言うんです。日常の意識です。自分の意識を見つめられますか?日常の自分の意識をいつも見つめられますか?たとえば被害者意識になる事は結構ありますね。大なり小なり被害者意識になります。例えば、旦那が地面にかばんを置いていて妻がそれを知らずにけつまずいてこけたとします。奥さんはどう思うでしょうか?「一体誰なの!このかばんをこんなところに置いたの!気がするじゃないの!」と怒る奥さんはどれ位いらっしゃるのでしょうね。余談ですがこの時に感覚の人はこのように捉える努力をします。この瞬間を受け入れるのです。かばんが地面にありました。そして自分が知らずに注意しないで躓いたのです。そしたら、「ああ危なかったわ。こんなところにかばんがあるとは知らなかった。もっと注意しなくては。」とそれをそのまま受け入れるのです。現象をそのまま受け入れるとこのようになるのです。

 この中間があります。意識は「一体誰なの!このかばんをこんなところに置いたの!気がするじゃないの!」という被害者意識で現れます。さあどうしましょうね。この意識を客観的に見れない人は「誰なの!あなた!あなたなのね!あなたのかばんだからわかるわ!もっと注意しておいてよ。こんなところにおきっぱなしにしないで。怪我するでしょう。」と自分が被害者になって夫を加害者に仕立てます。

 ところが自分の成長を願っている人はこの自分の被害者意識を客観的に見つめられるのです。「果たしてこんな被害者意識を持ってよいんだろうか。確かに主人がこんなところにおいたんだけど、喧嘩しても仕方ないし、責任を主人に負わせるなんて自分の人格があまりに酷すぎる。もっと愛の人格にならないといけないな。だから自分が気をつけなかったし、自分はこの今の現象を受け入れられない自分だったので自分が悔い改めるというほうが、愛のある人格になれるから、自分が申し訳なかったわ。」と思えたらいかがですか。自分がそれが現象であると受け止めていくときにその様な学習が出来るのです。そうして少しずつ目の前の現象を受け入れられるようになるのです。被害者意識にならなくても住むようになってきます。学習するからです。

 このような戦いをしていますか?誰かが置き忘れてその忘れたものが自分の頭に当たっていたい思いをしたときに、その痛みとともに被害者意識が噴火します。これはその現象を受け入れられてないと言う証拠なんです。受け入れられないので自分が被害者になって加害者を探します。「一体誰がこれをここにおいたか!」というのですね。それを自分の筋肉を使わないで現さないで自分の中で悔い改めるのです。痛い目してどうして自分が悔い改めないといけないんですか?そんな道理がこの世にはないでしょう。民主主義社会には存在しません。それらは全て法律で擁護されるようになってるからなのです。実はこの民主主義の世界では人間を成長できなくしてしまっているのですよ。

 人が私の心を傷つけました。私の心情を蹂躙しました。あの人は私の心情を蹂躙した張本人だと一瞬思うはずです。そう感じた自分の意識を絶対に見つめる事はできないでしょう。どうして見つめる必要があるのでしょうね。しかし、向上心の強い人は愛の人格を強くも違い人は自分が心情を蹂躙されたと感じた自分を見つめて、情けない自分だと感じるんです。それでは愛の人格者になれないし敵を作って怨讐を作っている現状を見つめて自分自身が悔い改める必要があるんですね。

 私の戦いは毎日これをしています。簡単ではありません。日常の生活でどれくらいの向上心を持ってますか?どれ位自分の自己実現をしようと願ってますか?どれ位自分が変わろうと思っていますか?その向上心は持ってますか。

 だから私は人間の意識と言うその課題を掲げながら求めているところなんですね。これは絶対に頭に入れておかないといけないことなんですが、人間の意識と言うものは後追い意識であると言うことを念頭に置かないといけません。実は自分が願った意識では無いからです。自分が願うが願う前か、自分自身の基準に応じて人間自分の脳は意識として表しているんです。それを認めないといけないということなのです。

 

 

 

 

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