感覚の世界の旅 その97 本性による学びの場

 私は教育という概念を使いたくありません。「教育という語は多義的に使用されており、以下のような意味がありうる。 教え育てること。 知識、技術などを教え授けること。 人を導いて善良な人間とすることl。 人間に内在する素質、能力を発展させ、これを助長する作用。 人間を望ましい姿に変化させ、価値を実現させる活動。 ウィキペディア」というように説明されていて「教えて育てること」という概念の意味があります。実はこれは人間の本性を引き出すことが出来ないのですね。今日はその事を書いてみようかと思います。

 新しい創造性というのは何処からうまれてくるかというとわからないところからうまれてきます。予測できないところからうまれてきます。AIの人工知能の世界がありますね。チャットGPT4があります。これはネットの情報のLLMが情報源になっていて、それを利用しています。実はこの中からは新しいものは現れないのです。なぜかというと現実に現れたものだからです。形として現れたものをいくら集めて新しいものを作ろうと頑張っても出来ないんですね。人間の作った概念がありますね。人間が作った概念からは新しいものがうまれません。現代になって多様性とか遇有性とかという事を注目している人々、茂木健一郎氏もそうですが、わからない世界というのがその新しいものを生み出すもとになる可能性が非常に強いと思われます。

 教育、教えて育てるという意味は何を教育するんですか?今まである物でよいものを教えるのでしょう。ままで現れた知識を教えてますね。それで育てるということでしょう。そして教えるのは概念を使って教えるのです。だからその様に教育されるとそこから新しいものがうまれなくなってしまうのです。概念に縛られた人間を作ることなのです。

 統一思想がいう本性は何ですか?それから原理講論の言う本性は何ですか?堕落性本性ならみんな良く知ってますね。人間の本性がどうして堕落性本性として現れないといけないのでしょうね。求めたことありますか?人間の本来ある本性がどうしてその様な形で現れないといけないのでしょうか?尋ねたことありますか?私はそこを求めていたんです。どうして善と悪があるんだろう。神とサタンが存在するんだろうと考えてきました。でも多くの人々は歴史がそうだったし、戦の歴史だったし、善悪があるのは当たり前で「そんなもんだ。」と理解してしまってますね。だからそこで思考停止になっています。私は諦めませんでした。一体何が起きたんだろう。過去のことでしたが現代にその兆候が必ずあるとおもって今の瞬間に中で求めてきたのです。

 人間の本性は概念からでは生まれませんね。人間の本性が概念を通じてあられると必ず善悪の評価基準になるので堕落性本性として現れます。概念で生きている社会では堕落性本性でしか現れないのです。それは教育でそのように学んできているし、社会がそのようになっているのです。ここから帰るのは至難の業ですね。人々は自分を変える事はしません。自分を成長させる向上心がいつの間にかなくなってしまいました。それから好奇心もいつも間にかなくなりましたね。赤ちゃんの時は向上心と好奇心の塊だったのにどうしてですか?

 それは親が「教育」するからです。親が何を始めに教えますか?言葉ですね。次に言葉が段々理解できたら何を教えますか?善悪ですね。よい行い、悪い行いを教えますね。そして学校という子供達の集まりの中で如何に人間付き合いをうまくするかと言う事を教えられます。規則の中での生き方を教育されます。そして言葉による教育が始まります。凄いでしょう。これは概念の「教育」なんです。概念の「教育」をしてそして概念の社会で暮らせるようにするのです。そうして幸せになるというでしょう。概念の世界で幸せになれという「教育」を一貫して行っているのです。

 それを知っている私は「教育」という概念の表現が出来なくなってしまいました。この社会で感覚人間が生きるにはどれ位の苦悩を感じながら生きないといけないのかわかるからです。感覚人間から感じることなんですが、感覚の世界はとっても広くて無限大の世界です。言葉では表現できない世界なのです。そして明らかではありません。無限大のわからない世界が広がっているという世界ですね。それが私の中にあります。実はそこから新しい創造性が生まれるのだと思います。一人ひとりの願うように、一人ひとりが最高の喜びを感じることが出来る創造の喜びが可能なシステムになっているのです。人間の脳はそのように作られているようです。だから「教育」ではなくて「学び」です。自分が理想を実現させる、自己実現をする為の学びなんですね。この違いわかっていただけるでしょうか?

 この感覚人間が概念の世界で生きるとどうなるか?私の体験が沢山あります。私は強い承認欲求と過剰適応で何とか良い人間関係を実現しようとしていたのです。そうすると何が起きるか?自分の中で何が起きるかというと自分の感覚を否定しないといけなくなってくるんです。感覚の世界では概念の世界は広く理解できるんですね。理解したうえで人々と関係を持つにはそれにあわせないといけなくなるんです。今まで記事にしてきましたが一対一の関係を結ばなければなりません。一対一の永遠の人間関係です。一対一で一つに永遠になれる関係です。でも、概念の世界では社会ではそれが非常に難しくて、理解されなくて、認めてもらえなくて、簡単に概念で評価され決められてしまうのです。利用されやすいでしょう。疎外されることもありますね。

 私はクラブ活動をしていたので、いろいろな経験があります。卓球をどうして選んだかというと一人でする競技だからです。他の人に迷惑かけたくないからです。バレーボールとか野球とかバスケットボールとかチームでする競技は自分がミスったら迷惑かけるでしょう。だから完璧主義の私にとっては迷惑掛けたくないから、個人競技の卓球を選びました。武道系は怖いので止めました。でも、団体戦がありチームで戦わないといけないのですね。しかしなんか沢山のチームメイトがいても自分だけはみ出てる感覚があります。みんな一緒にいるのに自分だけがはみ出てるのです。

 本性による学びの場は良く考えないといけないと思います。養老猛司氏が小学校は必要ないと仰ってます。私も同感で、この小学校の時はより自然の多い環境で育てるべきであると私は思っています。言葉は二の次です。多様性の秘めた環境、遇有性に満ちた環境、概念に縛られない環境、時間とか言葉に縛られない自由な環境で自分の好きな学びをさせるのです。原理講論の理論の教育よりも、聖書の言葉の教育よりも本質的で作られた創造主の環境の中での学びは、与えられた本性を十分に現すことが出来る、自分の本性を外的環境に転写して、形にして学ぶ環境がすなわち人間の創造本性として本性が現れるのです。

 今の人間が考えているのはシンギュラリティーなんていう事を考えてます。「シンギュラリティー(技術的特異点)とは、自律的な人工知能が自己フィードバックによる改良を繰り返すことによって、人間を上回る知性が誕生するという仮説です。 人工知能研究の世界的権威であるレイ・カーツワイル氏が2045年にシンギュラリティーに到達すると予測していることから、2045年問題とも呼ばれています。」と説明されてます。皆さんも同じように考えてませんか?

 ある二世と先月お話したことがありました。その子はイーロンマスクの火星移住の事を言ってましたね。魅力があるし、安いそうです。皆さんはこのまま高度な科学が発達して高度に住みやすい環境が出来るのではないかと思ってませんか?AIが発達して、自動運転も発達して人間が作った都市の中で喜びを感じながら安心できる環境で生活できるなんて考えてませんか?実はこのような世界には人間に与えられた本性を映す環境なんて無いんです。本来の喜びを感じる世界ではないのですね。だから「この船は一体何処に向いて進んでいるんだろう。」という私の疑問がいつもあるのです。自分も乗りながら自分は考えてます。いつもデッキで海を眺めながら考えています。船の中でみんなと話したりする事はあまり無いようですね。たまにしますが。

 人間の本性を創造本性に現す事のできる環境を考えたほうが良いと思います。これが本来の愛の主管性を取り戻す方法なんです。教育自体は愛の逆主管なんです。また分からないことを書いてしまいました。宇宙人が書く記事なので気にしないでください。

 

 

 

 

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