感覚の世界の旅 その87 誰も敵に回せない自分

 誰も敵に回せない自分自身の生き方はとっても辛いことが多いかもしれません。心情の蹂躙の話をよくしますが、これは心情を蹂躙してはいけないという意味はどういう意味かというと、心情の蹂躙を感じてはいけないと言う意味ではなくて、むしろ言動に注意しなさいという意味ではないかと思うのです。よく知らず知らずのうちに人を傷つけ、知らず知らずのうちに人の心を蹂躙していると言う表現があります。これはほとんどが話してる人が悪いと思いがちです。ところが感じるほうも実は考えないといけないということなのです。
 表す人とそれを受ける人との関係で解決しようとしたのがいわゆる民主主義の世界です。被害者と加害者に分けてはっきりとさせなければならない民主主義の世界なんですね。大体被害者が先なんですね。被害者がいると言う事は加害者が存在すると言うことなんです。だから法律があり裁判所があり、そしてそれを取り締まる警察が存在します。
 み言葉においては警察もいらない。裁判所もいないと言う表現をしてありますね。法律と言う決め事に関しては必要かもしれませんが、違う内容で決められていくかもしれません。一定のルールを作ることも必要なので、そのルールは決してなくなる事はないと思います。
 警察とか裁判所とかというのは、どこから来るかと言うと、兄弟喧嘩なんです。兄弟喧嘩とそれから親との関係から成り立っているんです。日常の生活で子供が喧嘩したときに、親はどのように対処するかというのを見ていきましょう。親は現場を見ていなくて、気がついたら子供が喧嘩をしていたと言う状況を考えてみましょう。もしあなたが親だったらどうしますか?
 事情を聞いてどっちが悪いのかを判断する。そして親の判断で悪い方を決める。悪い方が決まったら、その悪い方をしっかりつける。と言う具合ですね。これは子供の立場を完全に無視していて、ただ外的なものだけを見て言葉の概念で判断しているんです。だからそこに善悪の評価基準が現れてきます。はっきりさせないといけないからです。
 この仕組みがすなわち被害者と加害者の立場と第三者の裁判官の立場と同じなんです。裁判官の決定には絶対的に従わないといけないと言う意味でしょう。これがすなわち概念で生きる世界なんです。では感覚の世界ではどのようになるでしょうか?子供が喧嘩してますよね。子供が喧嘩していて、親なら心がとっても痛いんです。心が痛いので、自分の心の痛みを癒すために、はっきりとさせてきましたが、自分の心の痛みをじっと飲み込んでその状況を見ているんです。よっぽどのことがない限り子供の喧嘩に対して干渉しません。命に関わったり、大きな怪我になる可能性がある場合は仕方がありませんが、じっと何も言わないで見つめているんです。
 そうするとどのようになるかと言うと、喧嘩をしている子供たちは永遠に喧嘩をするなんて不可能です。絶対に不可能なんですね。時間が経てば、だんだんと自分たちの行動が何であるかということを自覚し始めるんです。喧嘩をして勝っても負けても心がすっきりしないんですね。どうしてすっきりしないかと言うと、別れてしまっているからです。喧嘩はしてても心が離れて仲良くなれてない。その状況が苦しいからです。人間は必ず仲良くしたいし、お互いに和解したいし、一つになりたいと願うんです。だからその方向に自然と行かざるを得なくなります。
 すると、ただ正しいと思っても、勝った方も勝ったけど嬉しくないんですね。心が痛むんです。それは別れてしまっているから心が痛むんです。だから自分がいくら正しいと思ってても苦しいので謝るしかないんですね。自分が悪かったと言って謝るんです。ちょっとやりすぎたかもしれないし、自分にも悪いところがあったかもしれないと言いながら近づいていくんです。もう1人のほうも大丈夫だと言って、自分も悪いところがあったかもしれないと言って近づいていくんです。そして2人は和解するようになっていました。

 人間はこのようにして1つになるようになっています。それは人間の感覚の中には、1つになることを願う部分があるんですね。喧嘩は長続きしないんです。長く続きしないのでそのようにならざるを得ないんです。それの方が苦しいので一つになろうとします。そして子供は大人のように長く怒りを持つ事はありません。だからすぐにさめてしまいやすいでしょう。

 しかし、現実はそうではありませんね。どうしてこれができないんでしょうか。実はここに概念が入り込んでそのままの状態を固めてしまっているからです。善悪に固めてしまうのです。それが逃げ道を作っています。善悪を決めてしまえば別に一つにならなくても戦えばよいというのですね。それが続き、永遠に戦いとなって残っていくんです。そのようにして善悪を決めるということは、善と悪に固めて一生戦いが終わらないようにしていると言うことを気づかないんです。決めてしまえば簡単でしょ決めてしまえば、それで戦い戦えるからです。決めてしまえば言い訳ができるし、戦う理由ができるわけです。このようにして、人類歴史の流れは人間の概念によって決めつけられ、人間の概念によって戦いが終わらないんです。

 誰もこんな考えは持たなかったでしょう。カインアベルの原則で考えてきました。カインアベルの原則は善悪の評価で行われるので終わりがありません。しかし、概念と感覚の観点で見ると人間が自身の感覚に目覚めて、自分の感覚を見つめ始めた時から良心作用が始まるので一つになる道が開けるのです。

 だからエス様は裁いてはならない。裁いたそのさばきで自分が自分で裁くその日がやってくるという意味で、内的に自分を見つめつ時がくると、自分の裁いたその裁いた基準で自分を裁くようになるという意味なんです。仕方がありません。この日が必ずやってきます。

 これを心理を知っている私たちがどうしてできないんでしょうか。外的に見つめてばかりいると無理です私から言わせれば無理なんです。見えないものに頼っても無理なんです。自分自身の感覚で自分自身を見つめなければ無理なんです。それは私自身がそのようにやってきたので、実感しております。

 誰も敵に回せないという意味はここにあります。敵味方と言うのは結局概念によって縛られているので、解決する道がありません。解決するには裁判所を使って外的に概念で縛り付けるしかないんです。これはまるで概念による奴隷になっていると言っても、言葉はきついかもしれませんが、私にはそのように見えます。堕落性も同じです。堕落性が蔓延している世界で堕落性に麻痺して自覚することが出来なくなってます。そして堕落性の奴隷になっている自分自身の姿が見えないんだなと思わざるを得ないんです。

 これは全て感覚を失った感覚が非麻痺した人間の姿なんですね。だから私には善悪の評価基準っていうのは昨日の記事はこの善悪の評価基準と言うものを私を中心として自己実現に変換すると言うのはこのような意味を含んでいるんです。でも、これを気が付くのは大変な道になるので仕方がないです。私は外的にはなんら変らない歩みですが、そんなに派手な立場でもなく、教会の責任者にもならない地味な存在ですが、心の中では苦悩と苦痛の歩みをしています。概念で作られた社会、教会の中で黙って生きるのは難しいですね。でも騒いだら意味がなくなってしまうし、一人一人が悟らないといけないので何もいえません。

 

 

 

にほんブログ村 海外生活ブログ ロサンゼルス情報へ
にほんブログ村