感覚の世界の旅 その79 カテゴリー化する概念
カテゴリー化する言葉を私はつかえなくなって来てます。いろいろなカテゴリーがありますね。特に指導者、教育者、先生とか人を育てるために教育する人ですが、私には向いてないようです。それから講義をする講師、進行係をするひと、班長とかそういうのも難しいですね。私は班長をした事はありますが、私のタイプではないです。
人をどうして知ったつもりになるのでしょうか?何が原因で人を知ったように思うのでしょう。人を理解してるように思っているのでしょうね。それから何でも分かったつもりになってますね。人の事を何でも知っているつもりになってますね。一体どうしてなのでしょうか?
私の場合は感覚的なので常に一対一です。一対一なので人を理解できているなんて絶対に思えません。いくら頑張っても理解できないものだと思っています。だから私はそれを人に求めてきましたが、そんな人は一人もいませんでしたね。当たり前なんです。そんな人はいるわけないです。一人一人の存在というのは別々の存在であるという事をどれくらいの人が認めることが出来るのでしょう。誰一人としていないのではないかと思います。この私が書いてきる記事で「私の世界」を書いている人はいないでしょう。
私には一人の世界が見えてて、私の世界が見えるので、このような記事を書く事が出来るのです。この「私の世界」がすなわち自分自身の感覚の世界なのです。日常の生活で感覚として感じる世界とその感覚という意識で感じるものと、感覚という無意識のエリアもあると思います。そうして無意識から意識化されるからです。これらの機能は自分の脳が全て行っているのです。だからこれを日常の生活化すると私たちは別々の存在である言を認めざるを得ないのですね。
一人一人違うんだからどうしてカテゴリー化しないといけないのでしょうか?その原因となっているのがすなわち人間が使っている言葉なんですね。言葉の性質が概念なのです。概念カテゴリー化してみんな一緒の類に中で生活しているみたいなそんな気分になっているんです。常識がありますね。これは典型的なものです。常識なんだからみんな同じ事をするのが普通なんだと思います。そして概念を使うとそれで知ったつもりになり、分かったつもりになり、人を理解しているつもりになっているのです。だから私はあなた方を理解していますなんて軽々しい言葉が平気で使えるのです。
私は使えません。使ったら自分の心が爆発して吹っ飛んでしまいます。分からないのが普通だからです。分かったつもりになる、理解したつもりになる、知ったつもりになったら人生は楽ですね。概念で明確にして生きることが出来る人に於いてはこの社会は素晴らしい環境なんです。安全で未来が予測できて、思ったようになり、なるようになる世界なので単純なんですね。しかし、感覚の人間にとってはこれほど息苦しい世界はありません。
森の話を良くします。森ってどんな所ですか?とかあの人はどんな人ですか?あの人はどんな職業ですか?あの人の生年月日とそれから血液型葉なんですかとか聞きます。人を言葉で知ろうとするのです。森を言葉で知ろうとするのです。何もかも言葉で知ろうとしてますね。分からなくなったら図書館に行ったり、文献を読んだり、色々な書物を読んだりします。人から色々と聞いたりします。いろいろな情報をえて自分は何ても知っている気分になっています。これは森ってどんな所ですかと聞く人と同じなんですね。
原理講論も同じでしょう。質問があったらみ言葉にはこのように書かれていますとか、色々と質問してくる人に対してみ言葉ではこのように説明してありますとか、いろいろな悩みがあると、本を読んでみなさいとか、色々とありますね。み旨の道というのがありましたが、感動するところがあります。そのみ言葉がありますが、その感動で終わってしまっています。感動したらどうしてそれを持って日常の生活で実践しないんですか?感動してそのままでしょう。それを何度も繰り返して自分は成長したんだと勘違いしていませんか。
森についていろいろな綺麗なところも知るようになったし、神秘的は部分も書いてあったのでそこに感動したし、色々書いてあって良く知る事ができたのでそれで森を知った気分になってしまうのです。み言葉も沢山よんで沢山感動して沢山涙したのでそれで知って成長したんだという勘違いを起こしてしまっているのですね。それを気が付く人はいません。全て概念なんです。
森を本当に知りたい人は自分で森にいって生活するのです。そして森の変化を感じるのです。そして予測できるものではないと言うことも実感します。いつも変化に満ちているという事も感じます。そして自分は何も知らないことに気が付きます。あまりに変化に驚くのですね。機構も変化し、風景も変化し、朝昼晩という周期があって同じ瞬間がないくらい変化しているでしょう。このような世界で生活するとどうなるかというと言葉を使わないで感覚で見るしかないんです。今という瞬間は今問い瞬間しかありません。二度と来ない今という瞬間だということを感じるでしょう。
私は子育ての時にそれを感じてたんです。子供達が遊んでますね。日が暮れるともう遅くなるので帰らせます。やっている事もやめさせますね。また今度来るからと約束します。つれてきてあげあるからと言って言い聞かせるでしょう。これは何を意味しているのでしょうね。子供を概念で縛り付けてるのです。遊んでいる今という瞬間が一番大切なのに、それを途中で止めさせるのでしょう。そして親の言う事を聞きなさいということなんですね。これは概念に従いなさいという意味なんです。今、この瞬間を生きている人間の感覚を無視しているのです。なんていうことなんでしょうね。私は今書いているこのような事は考えませんでしたが、子供にとって今この瞬間というのは子供の一生に二度とやって来る事のない貴重な瞬間なんだとおもって、私は子供達に付き合ってました。大切にしていました。実は私自身が感覚的な人間だったのでその様な発想があったのでしょうね。
森に入ったら時計も持たないでください。森に入ってそして自分の肉的な感覚ですごすんです。お腹がすいたら食べればよいし、喉が渇いたら水を飲めばよいし、暑くなれば日陰に入っても良いし、森の食べ物を食べてよいし、いろいろな生き物を見ながら研究しても良いし、植物も良いですね。土もいつも変化してますね。季節もあります。空気の感覚も得られます。そうして森の中で言葉を使わないで暮らす事は非常に良いことだとおもうのです。人間の内側にある本性が自然を通じて現れるので、それを学習しながら感覚を育てるのです。今この瞬間が一番大切な事を勉強するのです。予測なんて出来ないですね。都会のような生活は無理です。
私は茂木健一郎氏のユーチューブに書きました。イーロンマスクは何処に向かっているのでしょうかと書きました。火星移住なんて考えても生きる事は可能でしょうが、人間の本性が引き出せないし、映す環境がないので成長できないでしょう。結局イーロンマスクは頭脳明晰なんですが概念の人なんです。
指導者、教育者、政治家、都会で住んでいる人々全てが概念で生きている人なのですね。そして実はそこには堕落性が蔓延していて概念によって自分の堕落性が分からなくなっていて麻痺しているのです。感覚に戻る道がありません。