感覚の世界の旅 その65 文字を読んで何が起きてるか?

 今日も風当たりの悪い記事を書きますね。概念の世界では正しい間違いの判断を下されるので仕方がありませんが、それを覚悟で記事を書きます。毎日の訓読、毎日の祈り、礼拝のみ言葉、そして修練会のみ言葉を勉強されてお疲れ様です。肝心な事を記事にしますので軽く読んでください。それの方が良いかも知れません。この記事は間違っている、霊界が分かっていない。見えない世界が分かっていないという人はおそらくいらっしゃると思います。特別精誠も理解していないとも言われるかもしれません。それはそれでよいです。そのように評価されるのであればそれでよいではありませんか。私は別に読んでほしいとは思わないです。とにかく書かねばならない、概念で表現することになりますが。書いて残さないといけないと思うので書かせていただきます。そして科学とか脳科学に関心ない方は分かり難いと思います。脳と霊界の関係なんて分からないですからね。

 

 

 

 新しい発見を見つけ出すため、研究者たちはfMRIを用いた調査を行いました。被験者を3つのグループに分け、ひとつのグループには23分間の「感動的な刺激」を与え、9分間の休憩を挟んだのち、「感情的に中性な刺激」を23分間与えたそうです。2つ目のグループではひとつ目のグループとは「感動的な刺激」と「感情的に中性な刺激」を与える順番を逆に、3つ目のグループでは間の休憩時間を9分から23分に伸ばしました。
 実験ではfMRIとは別に、被験者が感情的に覚醒状態にあるかを調べるために皮膚コンダクタンスレベルを測定しました。研究者たちは感動による影響が休憩時間にも影響すると仮定したので、皮膚コンダクタンスレベルは休憩時間もその直前の感動的な刺激を受けていた際と同様の高い数値になると推測。そして実際に数値を調べて見たところ、推測が正しいことが実証されました。つまり、感動的な出来事を経験した場合、その影響は感動後にも引きずられることが明らかになったわけです。
 さらに、感動が記憶に影響を及ぼすのはどのくらいの時間なのかについては、「感情的に中性な刺激」が関係するであろうことも明らかになっています。「感動が記憶に影響を及ぼすのはどのくらいの時間なのか」は、実験から6時間が経過した時点で休憩時間に起きた出来事をクイズ形式で問いかけることで判断したそうです。そして、このクイズの結果は、大抵の場合、皮膚コンダクタンスレベルと正解率が合致したそうです。つまり、感動により「感動的な刺激を受けた後」に経験する出来事に関する記憶の形成が強化されていることがテストの結果から明らかになったわけです。

 

 と書かれていました。李ヨハネ先生が仰ってます。感動したり、悔い改めたりしたときに私達は成長したと思うでしょう。沢山感動したら成長したと思いますね。そして悔い改められたから成長したと思うでしょう。その様なことに対してそれはスタートラインに立っただけだという説明をされてました。それを読んだときは理解できませんでしたが、今それが理解できます。この部分を多くの人々は勘違いしているのです。それを李ヨハネ先生は指摘されてました。それについて私が感じているところを説明します。感動したり、悔い改めとは私達の脳はどのように残っていくのでしょうね。私達の悔い改めとか、み言葉の感動とか、訓読で得た感動は自身の成長とは直接関係ないのです。それで感動したから成長したと思うでしょう。その様な方々に水を差すような内容なんですが、実はそれは記憶に過ぎないのです。

 記憶って何でしょうね。人間の記憶は何に用いられるのでしょうか?自分自身の脳の中の記憶は自分の何に用いられるかということです。それが評価に用いられます。私達の日常の生活でいろいろな場面に遭遇します。そしてそれぞれの場面を色々と評価するのです。人間は評価なしに生きるのは非常に難しいです。あの人は何々だ、とかあの車は危ないとか、あの人はルールを守らない、あの人は神様を知らない、サタンに支配されているとかいろいろな評価をするのです。その評価にその記憶の大部分を使っているようです。だからみ言葉の訓読、講義で勉強する、いろいろな感動をうけるとかというのは自分の人格が成長したのではなく、自分の理想の評価基準が上げられているのです。そして上げられた評価基準で環境を評価しているのです。これで成長したなんていえないですね。特に子供の教育にみ言葉を使わないといけないといって、み言葉で子供をズタズタに切り裂いてしまう自体が起きるのです。悪い事したらみ言葉で正すとか、悪霊に支配されてはいけないといい悪霊の責任にしてしまうとか、いろいろな事をし始めます。成長は一向にありません。

 実はこれでは人間は成長しないんです。もう一つの理由を書いてみますね。人間の良心は何から始まるかと言いますと、自分を認めた時から始まります。自分自身の姿を自分の意識で感じたときに始まります。被害者意識になったその理由が自分にあると感じたときから良心作用が始まります。そうして良心による成長が始まるのです。人の言葉に傷ついた時に、人の言葉に傷ついた自分自身が問題です。人の言葉に心情を蹂躙されて、心情を蹂躙されたと思った自分が未熟なのでもっと生長しないといけないと思うのです。そうして自分の良心が導くんです。それが抜けてます。人間は概念で生きている事を自覚すべきだと思いますね。概念が何か分からないでしょう。

 成長するには何をしないといけないかというと、自分が日常の生活で感じる自分の意識を中心になされるのです。自分の日常の意識で自分は何をすべきかとか、どのような行動をとるべきだとか考えないといけないわけですね。そしてて堕落性本性を結実させている人間です。知識では人間は成長しません。記憶では人間は成長しませんね。知識が豊富になり、沢山感動し、沢山悔い改めても何かが抜けているのです。それは何かというと良心を中心とした学習なんです。良心を中心とした喜びなんです。

 一体何を何を持って成長したといえるのですか?行動が変わったら成長ですか?知識が豊富になり、沢山感動し、沢山悔い改めて成長ですか?愛とは何ですか?愛は心情から表れるでしょう。心情は何ですか?分からないですね。自分自身が目指しているのは全てを受け入れられる自分になることです。良いことも悪いことも、良いのも悪いのも、綺麗なものも美しいものも汚いものも醜いものも、全部受け入れられる自分自身になることなのです。

 概念ではそれは不可能なのです。「毎日の訓読、毎日の祈り、礼拝のみ言葉、そして修練会のみ言葉を勉強されてお疲れ様です。肝心な事を記事にしますので軽く読んでください。」と書きましたが勘違いしないでくださいね。これが無駄だという意味ではありません。何かがかけているという意味なんです。

 

 

 

 

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