感覚の世界の旅 その61 善悪のない世界

 皆さん、善悪のない世界をご存知ですか?私は日常の会話でも善悪という言葉が使えません。そのことについて記事にして見たいと思います。説教で善悪という言葉を使われるたびに、「ああやはり分からないんだな、感じることが出来ないんだな。善悪のない世界があるのは私しか感じることが出来ないのだろうか」と思ってしまいます。なぜなら日常の会話でも善悪という言葉が使えないのです。良い悪いも正直使いにくくなっています。どうしても表現しないといけない時は良い言葉とか悪い言葉というような表現をしがちですが、このような表現も実は私には出来ないのです。こんな事を書くこと自体が馬鹿げてますね。この世には善悪が存在しています。その善悪の評価基準は一体なんでしょうね。良いこと悪いことという評価基準は何でしょうね。評価基準が一体何処から来ているのでしょうか?これは誰一人として知らないでしょう。だから原理講論を読んでいますね。善悪をはっきりと分けてますか?分けてない部分があります。そこを飛ばして読んでいませんか?私はここが非常に気になりました。引っかかったところなのですね。

 善の基準は相対的なものである。「復帰摂理の性格がそうであるから、この摂理の過程において取り扱われる善の基準は、絶対的なものではなく、あくまでも相対的なものである。なぜかといえば、ある特定の時代の上に立って考えてみると、その時代の主権者の理念の指向する目的に順応すれば善となり、その目的に反対すれば悪となるのであるが、いったん、その時代と主権者が変わり、その理念が変わるようになれば、同時にその目的も変わるので、したがって、善と悪の基準も変わるようになるのである。そればかりではなく、宗教や思想においても、その枠内にある人々にとっては、その教理とその思想が指向する目的に順応することが善であり、それに反対することは悪となる。しかし、いったんその教理や思想が変わるか、あるいは他の宗教に改宗するか、または他の思想に転向するようになれば、それに従って、目的も異なってくるので、善悪の基準もおのずから変わるようになるのである。人間社会において、常に闘争と革命が起こるその主な原因は、このように、人間の指向する目的が異なるに従って、善悪の基準が、常に異なってくるところにあるといえよう。このように復帰過程における善は、相対的なものとならざるを得ないのである。しかし、地上でサタンの主権を追い払い、時代と場所とを超越して永存し給う絶対者たる神御自身が主権者となり、その神からくるところの理念が立てられるときには、その理念は絶対的なものであるために、それが指向する目的もまた絶対的であり、善の基準も絶対的なものとして立てられるのである。これがすなわち、再臨主によってもたらされるべき天宙的な理念なのである。事実上、人類歴史は数多くの闘争と革命を重ねながら、本心が指向するこの絶対的な善を探し求めて流れてきたのである。したがって、堕落した人間社会における闘争と革命とは、この絶対的な目的を追求し、絶対的な善の世界を成就するまで継続せざるを得ないのである。」

 善神の業と悪神の業「善神の業は、時間がたつにつれてその個体の平和感と正義感を増進せしめ、その肉身の健康をも向上させる。しかし、悪神の業は、時間がたつにつれて不安と恐怖と利己心を増進せしめ、また健康をも害するようになる。それゆえに、このような霊的な業は、原理が分からない人にとっては、それを見分けることが非常に困難であるが、時間が経過するに従って、その結果を見て、その内容を知ることができるのである。しかし、堕落人間は、神もサタンも、共に対応することのできる中間位置にあるので、善神が活動する環境においても、悪神の業を兼ねて行うときがある。また悪神の業も、ある期間を経過すれば、善神の業を兼ねて行うときがときたまあるから、原理を知らない立場においては、これを見分けることは難しい。今日において多くの聖職者たちが、これに対する無知から、善神の働きまでも悪神のそれと見なし、神のみ旨に反する立場に立つようになるということは、実に寒心に堪えないことといわなければならない。霊的な現象が次第に多くなる今日において、善神と悪神との業の違いを十分に理解し、これを分立することができない限り、霊人たちを指導することはできないのである。」

 原理講論ではこのように説明されているように善悪は絶対的なものではないと言う説明なんです。どうして相対的なものなのでしょうか?善悪の基準を一体誰が作っているかを説明していますね。「堕落した人間社会における闘争と革命とは、この絶対的な目的を追求し、絶対的な善の世界を成就するまで継続せざるを得ないのである。」という戦いは終わらないです。終点がありません。この善悪の基準がある限り戦いが終わらないのです。「善神が活動する環境においても、悪神の業を兼ねて行うときがある。また悪神の業も、ある期間を経過すれば、善神の業を兼ねて行うときがときたまあるから、原理を知らない立場においては、これを見分けることは難しい。」と書かれている意味がお分かりでしょうか?

 実はこれは人間個人次第なんですね。私次第だということなのです。私の世界で解決されなければならないもんだいなんです。関係の中の私達の世界では概念として残り、善悪の基準は消える事はないでしょう。何時までたっても消えないので戦いが終わりません。それを誰一人として感じることが出来ないので依然として「善」「悪」「神」「サタン」「善霊」「悪霊」という言葉を使わざるを得ないのです。こんなこと書いたらまた流れに逆らうので、嵐の風に逆らうので強い流れを受けないといけないかも知れません。誰一人として容認は出来ないのは良く理解しています。

 一体善悪のない世界が何処にあるのかという事を記事で何度も書いてきました。善悪が何に変換されるかというと自己実現に変換されます。ある言を認めることで変換されるのです。それは私達の世界から私の世界に入っていくことなのです。それを日常の生活で出来るのです。私はそれを感じます。

 実はこれが人間の本性が堕落性本性ではなくて創造本性として現れる道なんです。

 

 

 

 

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