感覚の世界の旅 その59 雑草

雑草の定義として、以下のようなものが挙げられている。

  1. 農学の立場からみて、「作物に直接または間接的な害をもたらし、その生産を減少させる植物(荒井:1951)」
  2. 植物生態学の立場からみて、「人の活動で大きく撹乱された土地に自然に発生・生育する植物(ハーパー:1944)」
  3. 一般人の立場からみて、「人々の身の回りに自生する草」(人里植物)。
  4. アメリカ雑草学会「人類の活動と幸福・繁栄に対して,これに逆らったりこれを妨害したりするすべての植物」。

 これはウイキペディアから引用したものです。これは人々の生活の中ではあってはならない存在ですね。私も同じく雑草は取り去って綺麗にしないといけないと感じてました。汚く見せるイメージがあります。いえも、何も手入れしなければいろいろな雑草が生えて、植物の蔓が延び始めて全体を汚く見せます。ロスアンゼルスの高速道路の両サイドには塀がありますが、そこが雑草の蔓で見栄えが良くなくなるので定期的に掃除されます。人間が住む環境では雑草はいらない存在なんです。だから如何に除去するかを人間は考えるのです。

 実は私はここに目を向けました。人々から排除されやすく、存在しては困るもの、そして取り去ってもさらに生えてくる。人間社会の中で生きる雑草です。この雑草を排除する人間の姿をみて如何に人間が感覚を無視して概念で生きてるのが理解できるのです。植物は人間が綺麗に感じるようにいろいろな手入れを重ねてますね。綺麗な部分を取り出してそれを飾りに使います。ビルのなかとか、人間界に現れる植物はそのように手入れをされた観賞用の植物なんですね。見た目綺麗な植物だけを観賞用に煮限界に取り入れてます。実にこれは概念の人間が作り出している社会に感じます。概念が悪いという意味ではなくて、感覚が麻痺しているという意味なのです。

 コンクリートの割れ目とかいろいろなところに少しでも土とそれから水と栄養があると生息する雑草の姿は何なのでしょうね。人間に感覚に戻りなさいといっているように思えます。このような雑草を排除し、自然を壊して、気に入った植物だけを観賞用に取り込み、未来になるとフェイクを作って、変わらないフェイクの植物を展示すればいつも綺麗ですから、枯れたりもしないし、そのままでいられるのでその様なものも作られていますね。何の変化もない植物なんです。ただその綺麗な瞬間だけを誇張した偽物の植物を作るのです。だから人間は感覚を麻痺させて概念だけで生きる生き物だというのです。

 雑草は人間にとっても良いですよ。こんな事を書いたら雑草を引き抜けなくなりますね。まあでも人間は生き物を食べてますし、畑を作って食物も作っているので、人間の為にあるので固執しなくても良いかと思います。生き物は人間の為に存在するのでごめん、とかありがとうと言って排除しても良いのではありませんか?人間界で生きる自然の法則と考えれば別にそこまでそのまま置いておく事はないと思います。

 仏教は生き物を殺してはならないといいますが、固執しなくても良いと思います。それは動物界の法則なので仕方がありません。動物も他の生き物を殺しているわけですから。だけど、人間は感覚を麻痺させているので、これらの雑草は見るたびに何か感じるところがあります。だから私は魅力を感じ始めているところです。見るとその情報が私の互換を通じて体内に入ってきます。電気的信号になって脳内に入るのです。そして分析します。その一部が意識になって現れるのですが、なんか少し生えてる雑草はそのままにしてあげて置いたほうが良いかなと思うのです。

 人間界で生きる生き物がコンクリートの中にそこにヒビが入っていて、そこからけなげに植物が生えているその情景はまったく違います。その植物を抜いた風景と抜かない風景とどっちが好きですか?私がたとえ雑草でもそのままの風景のほうが好きです。

 

&n

 

 

 

にほんブログ村 海外生活ブログ ロサンゼルス情報へ
にほんブログ村

 

 

 

bsp;