感覚の世界の旅 その53 創造主としての神様

 創造主としての神様としての神様と呼びます。いろいろな神観があります。ここで私が今までの生活の中で自分なりの神観をまとめてみました。非常に面白いと思います。

 

 1、何も知らない神様

 創造を始められる前に神様は何を知っていらっしゃったのでしょうか?創造のブループリントがあって人間の姿がすでに分かっていらっしゃったのでしょうか?そういうふうに教えられました。私が感じるには始めは何も知られなかった神様ではなかったかと思うのです。

 

 2、無能な神様

 何が無能な神様かといいますと、創造が始まった後の被造世界に対してです。被造世界に大しては無能な神様でいらっしゃるという事を感じます。人間の堕落行為に干渉されない理由がありました。このように原理講論にはかかれています。

 ①[創造原理の絶対性と完全無欠性のために] 。

 ②[神のみ創造主であらせられるために] 

 ③[人間を万物の主管位に立たせるために]

 ということです。「神は自ら創造された原理的な存在と、その行動のみを干渉されます。」と説明されている部分がありますが、この説明は曖昧です。被造世界に対しては無能なかたです。

 ①、神は人間を、被造世界の主管者として創造されました。

 ②、神は人間を、被造世界の媒介として、また和動の中心体として創造されました。

 ③、神は人間を、天宙を総合した実体相として創造されました。
 ということですね。だから被造世界に対しては人間に主管させるので、神様は被造世界に対しては無能な神様です。

 

 3、創造の始めに全てがあった。

 創造の始まる前には全てがあったということです。あったということではなくコンピューターのようにコンピューターは0と1で成り立っています。この0と1のようなものなのですね。だから銅像が始まることでハードウエアの物質とソフトエアーの機能があり、個性真理体の主管性と自律性によって発展していくということです。それ自体が機能を果たしていくのです。だから創造主であられる神様の干渉は受けません。

 

 4、創造の最終目的は神様に似る存在を作ること。

 一応結果的には人間が誕生しました。結果的に進化の過程で生命がうまれ、そして人間が誕生しましたが、これは個性真理体自体の運動と機能なのでどんな姿をした生き物が生まれるかは分かりませんが、ただ神様に似た存在がうまれるということです。それが結果的に人間の姿になりました。どんな形をした生き物が生まれるかわからないのです。

 

 5、人間が結果的に神の似姿である。人間は神の形象的実体対象であるので、形象的個性真理体といい、人間以外の被造物は、象徴的な実体対象であるために、それらを象徴的個性真理体というと説明しています。だから人間は一人一人は神様に似た存在なんですね。それをどうして感じ取れるのでしょうか?私と言う存在は神様が実体で現れた存在なんです。私の体は神様が実体で現れた形なんです。これが神様が現れた姿だということですね。それを実感できますか?

 

 6.神様は人間一人一人に相対される。

 どうして実感できないのですか?そんなことが実感できない原因があります。それが概念なのです。私達の世界に済んでいる人間一人一人の存在だとおもいますね。だからビラミット型の組織構造がどうしても出来てしまいます。それから比較対照するので偏差値とかIQのような正規分布図が現れるのです。一つの評価基準で人間を集めて分布図を作成すると、正規分布図が出来上がります。これは多くの人が集まって初めて可能な評価なのです。この世界ではピラミッド型の組織図が必ずあり、神の愛も上から下に流れるという理論が成り立ちますね。

 そのように教わりました。カインアベルの関係では神の愛はアベルを通じて流れてくるなんていうわけの分からない理論で非常に苦しみました。これは組織から脱却できないのです。組織の上の人のほうが神様に近い存在であり、その神様に近い存在の人に従わないと神様の愛を受けることが出来ないという変な理論になります。私このことで相当苦難と苦痛と苦悩を受けました。アベルという存在は神様に違い存在だということなのに、矛盾の中でそれを受け入れて、過度な適応をしながら受け入れてきました。

 このことによって見失っている事があるのですね。それが人間一人一人に神様は相対されるということなのです。どうしてそれを感じるかといいますと、私の人生を振り返ってどうして苦悩の苦痛に満ちていたかというと、私は一人一人に接していたからなんです。沢山の人がいると一人一人違う存在に感じるのです。友達だからと言って友達ということで括ることが出来ないのです。家族だということで家族として括ることも出来ません。一人一人を一人の人間としてみるので、簡単ではないのですね。複数の人がいると気持ちが散乱してしまって、どのように接したらよいか分からなくなりますね。だから、思うのですが神様ご自身も同じように私達一人一人を一人の人間としてみてくださっているんだというのだと思うのですね。

 

 7.私の神様、私の宇宙になる。

 そうすると「私の世界」で私だけの神様、私だけの世界、私だけの宇宙が見えてくるのですね。神様を独占しても何の不平不満もありません。人からその様な目で見られる必要もないと言うことですね。私達の世界で生きるとそれが消えてなくなってしまうのです。日常の生活で「私の世界」を感じると客観的に浮いているような感じを受けます。これは自分自身の感覚を中心とした生活でそれを実感することが出来るのです。

 

 8、創られた世界、被造世界を感じれない。

 これはとっても重要なことなのですが、創られた形ある物を人間のように肉的五感で感じるということが神様ご自身はできないということです。だから人間をどのような位置におかれたでしょうか。「被造世界の媒介として、また和動の中心体として創造されました。」ということなのです。

 これは人間の意識を客観的に見つめると理解できると思います。そして人間の感覚の世界を感じ取っているとわかります。人間の感覚と意識によって創造主であられる神様は被造世界を感じ取れるのです。被造世界はただの物体の運動だけです。ミクロの世界からマクロの世界まで物質の運動であり、物理的原則に従って運動しているだけです。機械の様に運動しています。生き物も生命も植物も、動物もみんな生体ロボットなんですね。だから人間が誕生しなければ意味がないのです。ただのロボットの世界になって、誰一人鑑賞して喜ぶことが出来る存在がいないと意味がないと言うことです。

 

 9、人間の感覚と意識を通じて。

 人間が被造世界を肉的な五感を通じて、人間の体は無意識で動きます。無意識で動いている部分が多いのです。無意識のほうがかなり多いでしょう。氷山の一角とかというように表現されるぐらいなんです。すると人間は殆ど無意識で行動しています。そして人間の意識というのは後追い意識なんです。何度もこの言葉を使いますが、意識した時はその時から0.5秒前には自分自身の脳が行動する意識の初期電圧を作っているのです。脳がその行動を指令しているのですね。脳が行動をしているのですが、人間の私と言う存在はそれを拒否したりする事は可能だそうです。だから一部を認めてそれを行動した時に現れている可能性があります。

 だから環境を自身の肉的五感でそのデーターを取り入れて、それを無意識の世界で計算して、私の脳は意識化してくれます。その時に喜びを感じたり、嬉しくなったりします。それは、自分が喜んだのではなくて、自分が創った脳がその環境の中で嬉しく思ったり、喜ぶことの出来る脳内物質を作ることによって、それを体感で感じ喜びが意識に表れるわけです。それを私が確認しているのです。嬉しいと思っているのです。この意識が実は霊的なもので、幻想のせかいです。この幻想の世界を実は創造主なる神様が感じ取ることの世界ではありませんか。だから人間を通じて神様は被造世界を感じ取れるようになっているのです。神様ご自身が直接感じることが出来ないのです。

 

 いかがですか、ちょっと今までの神観とは違いますが、面白いでしょう。神様を喜ばせてあげる為には私達が喜ぶことで神様ご自身も喜ばれるのですね。私達が苦痛を感じると神様ご自身も苦痛を感じられます。私達という表現をしましたが、これは私なんです。私が苦しめば神様も苦しまれます。人間が誕生して、人間が成長していろいろな喜びを得て成長すると、神様ご自身も同じように喜びを感じながら成長されるのです。だから神様ご自身も赤ちゃんの時代があり、青年の時代があり、大人の時代があり、結婚して夫婦になれば神様もそのようになられ、夫婦に子供が出来れ愛しながら喜ぶと神様ご自信もその世界を楽しまれるのです。

 このように人間一人一人は違った存在であり、神様ご自身も一人一人に対して違った存在として神様と私の関係をもって共にいてくださるのは理論的ですね。だから私は私の世界を感じ始めると私の神様だ!と主張してもそれは誰一人として不満を抱く事はないのですね。一人一人がそれが出来るからです。私の宇宙だといっても良いのです。素晴らしいと思いませんか。そんな世界が私達が住んでいる世界にあります。人間がそうだからなんですね。

 

 

 

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