感覚の世界の旅 その30 「私達の世界」と「私の世界」

「私達の世界」と「私の世界」があると解きます。ほとんどの人は「私達の世界」しか見えないでしょうね。

「私達の世界」は言葉で成り立っている世界です。複数の人間が集まって出来ている世界です。言葉がどうして必要かは以前も記事で説明していますが。人間が複数集まると内的な世界を共有する何らかの媒介が必要になってくるので、それが言葉の概念なのです。だからその言葉を学ぶことでその言葉の概念を使うことが出来ますね。日本人でも英語を勉強すると英語圏でもそれが使えます。英語圏の人と会話ができお互い理解し合えるのです。そして言葉の中に比較とか評価とか善悪、良し悪しの評価とか正しい間違いの評価とかその様は評価自体がある集合のなかで平均値を作って評価する方法ですね。正規分布図があります。この図は「私達の世界」で用いるものなのです。それから常識とか同調圧力とか言うものがあります。空気を読むとかありますね。それらも同じで「私達の世界」で使うものです。このような世界では「私の世界」がありません。なぜかと言いますと概念で作られた世界だからです。

 では「私の世界」と言うのは何かを説明しましょう。実はこれが私達の一人一人の皮膚の内側の世界、私達の感覚の世界、一人一人の固有なせかい、干渉することのない私だけのせかいなんですね。すなわちこれが日常生活の中での個人的な固有の感覚の世界なんです。この世界では感覚の世界なので今、この瞬間の、目の前の環境が重要になります。自分の肉的五感を通じて得られる情報がそれしかありません。人間が作った情報ではありません。主に自然の世界とか現実の世界です。この世界と私との関係の世界が「私の世界」なんですね。それは自分自身の日常の意識として現れているのです。自分自身の意識が自分自身の結果として環境と通じて私の属性として現れるのです。だから自分の意識は環境に映し出された自分自身の属性だと認めるべきなのです。

 [私の世界]なんだから、私自身が困難な環境だっても自分が取り組んでいかないといけないしでしょ。環境で苦しみを受けたってそれを人のせいにする、人の責任にするということはどういう意味かと言うと、本当は自分がそれに対して責任を持たないといけないのにそれを周りの環境のせいにすると言う事は、結局自分が責任を持っておくべきなのに、それができないっていうこと示しているんです。他人は関係ないんです。辛い環境与えてくれればくれるほど実は成長できるんです。私たちは大体辛い環境になると、こんな環境を与えたのは誰なんだと思うでしょう。それでは自分自身の責任が果たせてないんです。責任を渡す人っていうのは、苦痛の中で苦悩の中で環境の責任にしないで、周りの人の責任しないで、自分の責任として取り組む人が素晴らしいと言うんですね。

 だから被害者意識自体は自分の責任が果たせてないと言う意味なんです。そして心情蹂躙も同じです。自分の責任が果たせていないんです。法律は法律が責任を持つので、個人が責任を果たさなくても大丈夫なんですね。だから一生責任を果たすことができません。

 では、私たちの中で本当に責任を果たす人はどれくらいいるのでしょう。責任といっても、組織的な責任分担とか役割とか立場をとするという意味ではありません。置かれた使命をするという意味では無いのです。組織での役割とか組織での発展の為の責任とか、組織を大きくする為の責任とかと言うのは「私達の世界」であって、「私の世界」の責任では無いのです。これを私たちはわかっているのかとつくづく考えてしまいます。

 私の世界を始めに見出す必要があります。日常で感じる必要があります。

 私はこれを幼少期の時から訓練を受けていたように感じます。いつも人にからかわれて、いじめられて、いろいろなあだ名を付けられて、頭が大きくて、真っ黒で、宇宙人のような子供の姿で、そしてなんか落ち着きがなくて、変な子供でした。だから友人も出来なかったです。親しい間柄の友人は作らないというよりも、出来ない性格だったかもしれません。その様な環境がすなわち「私の世界」を作ってきたのかなと思います。

 これがまさか私を苦痛の人生に導くとは思いもしませんでした。社会に出るのが不安だったこともありますね。自分のやりたいことがなく、目指しているものもない自分はただ平凡に暮らせる人生を考えていました。

 

 

 

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